岐阜・大垣・長浜・竹生島、屏風の旅 その2
2日目
あいにくのお天気でしたが、強くならないことを祈りつつまずは大垣城へと向かいました。
大垣城
大阪城天守閣所蔵の通称津軽屏風と呼ばれる「関ヶ原合戦図屏風」に描かれている、石田三成が西軍の本拠とした大垣城です。
大垣城の内部が資料館となっていますが、そこに「関ヶ原合戦図屏風」を立体化したジオラマがあります。これが見たかった!
赤坂岡山の東軍陣です。
屏風だとこの辺り。
西軍本陣の大垣城。
角度が違いますが、屏風ならここです。本丸と二の丸の間の橋にいるぶち犬まで再現されています。
杭瀬川の戦いのあたりですね。
ジオラマ楽しいです!
大垣城の由来
大垣城は、天文4年(1535)宮川安定が築城した(明応9年(1500)竹腰尚綱の築城とも伝えられる)といい、水門川の流れを外堀に利用して造られた規模の小さな城であった。その後城郭の増築が行われ、天守は慶長元年伊藤祐盛によって造営され、元和6年に松平忠良により改築されたという。この天守は、四層四階建て総塗りごめ様式で、たいへん優美な城として名高く、歴史の上からも重要な役目を果たしました。昭和11年には国公に指定され、郷土博物館として親しまれてきたが、昭和20年7月29日繊細で惜しくも焼失した。その後、大垣城再建の気運が高まり、昭和34年、現在の天守が完成した。さらに平成23年には、天守と乾隅櫓を繊細前の外観に近づける改修を行った。
(パンフレットより)
関ヶ原合戦図屏風の大垣城は三層ですが、四層となったのは松平忠良により改築された後とのこと。屏風は古くに描かれたものということがよくわかるわけです。
このあと、関ヶ原を進軍通過し長浜へと向かいます。
長浜
長浜と言えば駅前の秀吉様と佐吉君。三献茶の像。
ここ、毎回思うのですが、背景もうちょっとなんとかならないのですかね。せっかくの撮影ポイントなのに残念です。工事が終わったらもうちょっとなんとかなるのかしら。
さて、長浜では黒壁スクエアで近江牛を堪能。二日続けておいしい牛肉。
長浜の豊国神社。
祀られているのは、豊臣秀吉と加藤清正と恵比寿様。あくまで恵比寿様です。
「虎石」
秀吉が築城した長浜城の庭園に置かれた「虎石(虎が伏しているように見えることから)」を秀吉は大変気に入っていたのですが、長浜城が廃城となった後、庭石は大通寺へ移されました。しかし庭石は夜毎に「いのう(帰ろう)、いのう」と泣いて訴えたことから元々長浜城のあった敷地に戻し、その後、現在の地である秀吉が祀られた豊国神社へと移されたということです。
他の説では、虎之助(加藤清正)が寄進した庭石なので「虎石」と呼ばれたというものもあるようです。
琵琶湖湖畔にある長浜城は、昭和58年に再興され内部は長浜城歴史博物館となっています。
竹生島
今回の旅行のメインイベント琵琶湖の竹生島へと向かいます。
竹生島の宝厳寺の唐門は豊臣時代の大坂城北側にあった極楽橋を移築したものと言われています。極楽橋は金を用いた鮮やかな色彩と「鳥や樹木など種々の彫刻」で装飾されていたといわれています。その華やかさは「豊臣期大坂図屏風」に描かれています。
実物が見られるならば!と片道30分の船旅で竹生島へ向かいました。
竹生島は竹生島神社とその奥に宝厳寺、港にお土産屋さんが数軒あるだけの小さな島です。
港から長い階段を上ると宝厳寺があります。
さらに登ったところに、真田丸での胃痛キャラがすっかり板に付いた片桐且元さんお手植えのモチノキがありました。
さて、そこを下ったところにあるはずの『国宝・唐門』を……
はっ!!!
改修中!!!
事前に調べておかなかった私も悪いのですが、なんということでしょう……ここまで来てこれは脱力です。
辛うじて、扉の部分だけは直接見ることが出来ました。おそらく完成当時は極彩色だったのだろうと思われる赤や緑の彩色が微かに残っているみごとなレリーフ。
あまりの動揺にピンボケであります。
かなり傷んでいるのが素人目にもわかるので改修いたしかたない……2年後には移築当時の豪奢な門が再現されるものと思われます。
国宝・宝厳寺唐門
慶長7・8年(1602・3)豊臣秀吉の子秀頼によって、京都豊国廟(秀吉の亡きがらを葬った廟所)の建造物を竹生島に移築するかたちで、当時荒廃していた竹生島の伽藍整備が行われました。この時、豊国廟の極楽門が移築され現在の宝厳寺唐門になったといいます。豪華絢爛と評される桃山様式の建造物の特徴がよく表れており、破風板内部の正面中央には大型の蟇股が置かれ、その内部は牡丹の彫刻で埋められています。蟇股の外部や脇羽目なども多彩な彫刻で埋め尽くされ、極彩色で飾られています。現在は、長年の風雨によりその鮮やかな色もずいぶん褪せていますが、建立当初は、黒漆塗りの躯体と、赤・黄・緑などの極彩色とが鮮やかなコントラストで映えていたことでしょう。
さて、この唐門は京都から移築されてきたものですが、実は、その前に一度移築を経験しています。このことが最近のある大発見によってクローズアップされてきました。2006年、オーストリアのエッゲンベルグ城に飾られていた壁画が、豊臣時代の大坂を描いた屏風絵であったということが判明したのです。そこには大坂城の本丸と二の丸の間にかかる屋根や望楼を持つ豪華な橋・極楽橋が描かれていたのです。この橋は、慶長元年(1596)に建造され、慶長5年(1600)に京都の豊国廟へ移築され極楽門として設置されたことが分かっています。さらに、慶長7年(1602)に竹生島に移築され現在に残っているというわけです。江戸時代の初期に徳川家によって破却された豊臣時代の大坂城の一部が唯一、竹生島に現存しているのです。秀吉が、初めて城持ちの大名となった地である長浜に、栄華を極めた秀吉の象徴ともいえる大坂城の遺構が唯一残っていることは、深い因縁を感じさせます。
(現地・立て看板より)
こちらがエッゲンベルグ城にある『豊臣期大坂城図』に描かれた極楽橋。大坂城の北側という裏側の位置であったのは、秀吉が構想した京街道に面する橋であり、後陽成天皇の大坂城行幸を考えての造営だったのではないかと言われています。
NHKがCGで再現した、大坂城極楽橋。(立て看、なぜ正面から撮らなかったのか……)なるほど、天皇を迎える為の橋と納得出来る造りです。
なにはともあれ、平成30年に完成とのこと、また2年後に行かなくていけませんね。
ということで、相変わらず短期間強行軍の1泊2日戦国期の屏風を堪能する旅となりました。
まだまだ見たい屏風がたくさんあります!
岐阜・大垣・長浜・竹生島、屏風の旅 その1
1日目
岐阜市歴史博物館所蔵の『関ヶ原合戦図屏風』の実物を見たことがありません。他の関ヶ原合戦図屏風は実物をみているので、とても見たいです岐阜の屏風。
と、いうことでこの連休は岐阜から滋賀への一泊旅行をしてきました。今回も地元大垣民であるお友達のご案内です。いつもありがとうございます!
岐阜公園の近くを流れているのは鵜飼いで有名な長良川。観覧船の造船所がありました。
黒板塀が渋いです。
岐阜市歴史博物館
ポケモントレーナーで賑わう公園を抜けて
向かいますのは『岐阜市歴史博物館』目的はこれ。
今回の目当ても当然の様に「合戦図屏風」であります。
しかし、事前に「展示品リスト」を確認したところ、岐阜市歴史博物館所蔵の『関ヶ原合戦図屏風』の名前がない……どこかでなにか見間違えたのか、でもでももしかしたら常設展にあるかもしれないし、他の合戦図屏風も見たいのでなにも問題はない!いざ出陣!
徳川美術館所蔵の品々がメインの展示となるので、長篠合戦図屏風と長久手合戦図屏風がお出迎えです。ありがたや。
長篠合戦図屏風と長久手合戦図屏風は一双として制作されているものが多く、そのほとんどが江戸時代初期に描かれた成瀬家本を原本として写本・派生が制作されたものです。
徳川美術館所蔵の尾張徳川家伝来の両屏風も江戸時代後期に成瀬家本を元に制作されていますが、成瀬の姿は省略された写本です。他の合戦図屏風でも見られますが、先祖の活躍を強調するなど一部改変されることはよくあることです。合戦図屏風は〝当家のご先祖が武将として活躍した姿を華々しく後世に伝える〟という重要な役目を担っています。
岐阜市歴史博物館所蔵の賤ヶ岳合戦図屏風は江戸時代初期に描かれ、他の〝軍記物〟に基づいて描かれた屏風よりも古いものです。残念ながら見学出来たのは七本槍の描かれた右隻ではなく左隻でしたが、馬印や旗印は後々参考にされることが多いほどはっきりとわかりやすく実物が見られてよかったです。
大坂夏の陣図屏風も岐阜市歴史博物館所蔵のものですがこれも見たかった屏風の一つです。大坂夏の陣図屏風といえばすぐ思い出されるのが、大阪城天守閣所蔵の戦国のゲルニカと呼ばれている一双でありますが、この岐阜市所蔵のものも充分にスペクタクルであります。ベースは軍記物と思われます。青々としたすやり霞を挟んで徳川軍を迎えうつ豊臣側の真田信繁の六文銭の旗印が勇ましいです。翻る旗印・馬印、この躍動感は同じく岐阜市歴史博物館所蔵の関ヶ原合戦図屏風に通じるものがあります。
関ヶ原合戦図屏風の実物でまだ見たことがないのは岐阜市歴史博物館所蔵のものだけなのです。すごく見たい……
岐阜市歴史博物館は岐阜公園の中にありますが、そこからロープウェイに乗った金華山の山頂に岐阜城があります。
織田信長居館跡
見上げると山頂にお城が見えます。その麓に現在発掘調査中の織田信長居館跡がありました。
通路の両側や土塁状遺構の側面には板状の巨石は立てて並べられている。
遺跡のあらまし
永禄10年(1567)織田信長は、稲葉山城主・斉藤龍興を追放して、「岐阜」の名を採用、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点としました。金華山の西麓には人工的な2〜3段の棚状の地形があって、最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下といいます。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で壮麗なものとして紹介した信長の居館の跡といわれています。
昭和59年から行われた発掘調査で、両側に板状の巨石を立てて並べ、千畳敷下から千畳敷へと折れ曲がりながら上がっていく通路をはじめとして、その途中や周囲に配置された土塁状遺構・石垣・階段状遺構・水路などが発見されました。岐阜城は、信長が近江の安土へ移った後、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前哨戦で落城するまで続きますが、これらの遺構の多くはその出土品から信長時代にその基本的な形が出来上がったと考えられます。
発掘調査では、これらの遺構の下にさらに古い時代の遺構群があることが確認されています。石垣・石積施設・階段状遺構などで、これらを埋めて作られた通路など上層の遺構が信長によるものとすれば、稲葉山城に係る斎藤氏時代の可能性が高いといわれています。また数枚の整地した土層が上下に重なっていることが確認されていますが、この中にはいくつかの焼土の面が含まれており、施設の焼亡を挟んで複数の城主による土地の造成が行われていたことが想像されます。
壮麗豪華な4階建てといわれる信長居館の建築そのものはまだ確認されていませんが。しかし中世から近世への過渡期の在り方を探る上で極めて重要な遺跡であり、このため今回整備工事を行い、将来にわたって保存されることになりました。
(パンフレットより)
岐阜城
ロープウェイを降り、少しばかり登るとそこにあるのが岐阜城です。濃尾平野を眼下に望む素晴らしいロケーション。これなら天下も丸見えですね!と実感出来ます。
信長公・道三公ゆかりの城
岐阜城はかつて稲葉山城と称していました。金華山頂にはじめて砦を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政と伝えられています。戦国時代には、斎藤道三の居城でもあったところです。徳に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄十年(1567年)(一説には永禄七年)八月、不世出の英傑織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてからでした。しあし、慶長五年(1600年)八月、関ヶ原合戦の前哨戦の際信長の孫秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城しました。翌慶長六年、岐阜城は廃墟となり天守閣、櫓等は加納城に移されました。現在の城は昭和三十一年七月、岐阜城再建期成同盟によって復興されたもので、鉄筋コンクリート造り、三層四階構造で述べ451.77㎡、棟高17.7mの威容を誇ります。城内は一階「武具の間」、二階「城主の間」、三階「信長公の間」となっており、最上階の「望楼の間」は展望台として多くの人に親しまれています。
平成二十三年二月七日、金華山一帯が「岐阜城跡」として、国の史跡に指定されました。(パンフレットより)
城下を一望する夜景はきっと素晴らしいものと思われます。
夜は某番組でヤマコーさんが歩いた養老の焼肉街道へ向かい、飛騨牛の内臓までこりこり新鮮な焼肉を堪能しました。
飛騨牛おいしかった!
2日目に続きます〜
『大妖怪展』へ行って来ました
若冲展の前売りを無駄にして以来、心折れたままBlogが放置になっていました。が!江戸東京博物館の『大妖怪展』は予てから楽しみにしていましたので、夏休みに入ってしまうと子供が増えて行列が出来る可能性も無きにしも非ず……ということでぎりぎり20日の午前中に出陣したわけです。
しかし!
その日は、若冲展のカオス日となった〝第3水曜日はシルバーデイ〟だったということに気がついたのは江戸博に到着してからのことでした。
若冲展が異常であっただけで、大妖怪展はびっくりするようなこともなく無事に入場。江戸博の特別展スペースはそれほど広くもないのでそこそこに混み合ってはいましたが、間を縫ってゆっくりと鑑賞することが出来ました。
音声ガイドは井上和彦さん。アニメ夏目友人帳でニャンコ先生の中の人なので、なるほど納得の人選。声のお仕事をなさってる方のガイドは大変聞きやすいです。
掛け軸や絵巻に描かれた妖怪はユーモラスでありおどろおどろしさは感じられません。毎回、日本画の展示を見た後同じ感想になるのですが、西洋絵画は写実を良しとしよりリアルを目指して描かれているものが多いですが、日本画は二次元に特化しそのデザイン性は現代の漫画に通じる楽しさがあります。『大妖怪展』はその辺りが最大限に楽しめる企画だと思います。
幽霊画や怪談の浮世絵は他の展覧会で見たことのあるものも多かったですが、今回面白いと思ったのが《針聞書》。
《針聞書》
鍼灸師のための口伝集。様々な病の原因となる虫を名付け図鑑化したもの。妖怪というのも編だが、病は体の非日常であり、その原因の虫の形は妖怪じみている。自然現象の不可思議の原因を妖怪に求める視線がついに体内に向けられた。描かれた虫たちは恐ろしい病状を生ずるのだが、なかなか愛嬌があって憎めないものたちだ。(図録より)
蟲師かな?
お子様がジバニャン目当てで行くとちょっとガッカリするかもしれませんが、百鬼夜行絵巻や六道絵、錦絵、版本、幽霊画、妖怪好きだけでなく日本画好きな方にはオススメの展示でした。
最近の特別展の図録はとても凝ってるものが多いですね〜
『2016年大河ドラマ特別展 真田丸』へ行って来ました
5月11日のこと
今月は『若冲展』の前売りも買ってあったので、当然ここは先に終了してしまう『若冲展』を優先すべきだな、と上野へ向かいました。
Twitterで散々流れていたのでわかってはいたのですが、んなこと言ったって並べば何とかなるでしょ。120分並んで中に入ってからさらに1時間待たされたあげくに流し見で立ち止まることも出来なかった鳥獣戯画展よりずっとマシなはず。
GW中よりは空いてるんじゃないかな〜
と、思っていたことが私にもありました。
3時間20分待ち……
ちょっとさすがに無理だわ。と諦めて両国へ移動。
並ばずに入れる『真田丸展』!
最近はどこの美術館・博物館へ行っても必ず〝音声ガイド〟をお借りするのですが、この『真田丸展』の音声ガイドは真田昌幸役の草刈正雄さん! 冒頭、いきなり大河OPに心躍ります。
歴史を追う形で真田家の展示は進みます。
昨年の大関ヶ原展で見た、昌幸の登り梯子の鎧はありませんでしたが、旗指物や馬印が胸アツであります。
信繁の頭形兜を見ると、意外に頭小さい人だったのかもと思いました。
川中島合戦図屏風は右隻だけ。岩国美術館所蔵のかなり有名な、あの真っ直ぐ整列した布陣の屏風ですね。舐めるように眺めてまいりました。
どちらも八曲一双の大迫力ですが、左隻の展示がありません。せっかく一双の屏風ですから並んでいるところを見たかったです。文化財保護の観点から長期の展示は出来ないということで入れ替えせいとのこと。ここに限らず、屏風の展示は左隻右隻どちらかということろが多いです。屏風好きとしてはちょっと寂しい。
大坂夏の陣図屏風は複製品の展示でした。真田の展示だし、大坂夏の陣図屏風は原本が見られたらいいな〜という淡い期待を持っていたのですが、こちらも残念。複製でも六曲一双揃っていたので、しっかり近くで見てきましたがやはり所詮は複製。筆跡や絵の具の厚み、古ぼけて読みづらくなっている付箋、表装の痛みぐあいなどの生々しさには欠けます。やっぱり、原本が見たい!!!大坂城で公開になることがあったら、新幹線で見に行きたいと思いました。
豊臣期大坂城図屏風の原本がないのは、しかたないです。原本はオーストリアのお城の日本の間に各扇バラバラに切り離されて壁面を飾っています。これを再び屏風の形で複製したものが展示されていたのですから、ある意味非常にレアな状況。八曲一隻に描かれた大坂城。すばらしい。
他に気に入ったのが小松姫所用の笛作りの懐剣、女性らしい持ち物なのに笛に仕込み刀とかかっこいいじゃないですか。城主が留守の城を守った小松姫らしい持ち物でありました。
全体的に書状が多めでしたが、真田家にまつわる展示品の数々を見られて幸せな時間でいありました。
ついでですが、石田三成のよくみるあの肖像画、あれをみると「武将と言えば三成〜♪」って音楽が頭の中で鳴るようになってしまったので滋賀県は罪深いです。
行けたら後期も行きたいのですが、行けるかな……
広島の旅 その2
二日目は2年ぶり5回目の宮島へ。
前日の土砂降りと打って変わって快晴。さすが厳島!
ただし、GWのど真ん中、観光客がものすごくて今までで一番混んでいる状態を経験。
宮尾城址・要害山
前回も行ってますから2回目であります。
ここは「要害山」の表記はあるけど「宮尾城址」である説明書きが見当たらなくて、せっかくなのにもったいないと思うのです。
「仁王門跡」仁王門っていうのは左右に仁王様がいる寺院の門だと認識しているのですだが、城の門に仁王門って名称あるのかな、ちょっと悩ましいのですがやはり説明書きがない。
宮尾城の堀切。
宮尾城は当時三方海に囲まれており水軍の運用も可能であったらしい。堀切というよりも海から荷物を運び上げるルートにみえないこともないです。
厳島合戦の地ですが、観光の中心はやはり厳島神社ですから戦国時代の史跡はおざなりなのかしら……とちょっともったいない。
どこも「跡」として石碑があるくらいの場所が多いのは戦国時代の史跡の特徴ではあります、400年以上前ですからね。
途中揚げもみじ饅頭やら牡蠣フライバーガーなどを食べ歩きながら厳島神社へと向かいます。
それにしてもさすがGW。人が多い、と思っていると……
未だかつてみたことのない『最後尾札』!!!
GWですからね、世界遺産ですしね……
厳島神社
どこを撮っても人が入ってしまうのは仕方ない。
前回、前々回ともに工事中だった反橋が完成しておりました。
重要文化財・反橋
天皇がご派遣になる勅使がご参拝の際にお渡りになったと伝えられることから、
別名、勅使橋とも言われる。
弘治三年(1557)毛利元就隆元父子によって再建されたものである。
重要文化財・豊国神社(千畳閣)
なぜか千畳閣を見たことがなかったので、念願叶っての豊国神社。
豊臣秀吉の命により安国寺恵瓊が建立した大経堂ですが、秀吉の死により工事が中断されたままの未完成で今日に至っています。
天井や壁板がなく柱だけの状態ですが、完成していたらどれだけ立派な建物になっていたのか想像がつきません。どんな天井絵が描かれたのだろか、秀吉好みの豪華絢爛な障壁画も入っただろうと考えるともったいない。完成したものが見たかったです。
床下は人が通れるほどの高さがあります。
千畳閣の隣りには色鮮やかな五重塔。
こちらは応永14年(1407年)建立。内部は未公開ですが、極彩色の観音像などが描かれているとのこと。見てみたいものです。
清盛神社
ぶらぶらと大鳥居を見ながら反対側へと足を伸ばすと清盛神社があります。
こちらの方まで来たことがなかったので、ちょっと新鮮。
清盛神社
御祭神 平清盛公
例祭日 三月三十日
御由緒 平清盛公没後七七〇年を期にその功績を顕彰し昭和二十九年三月翁神社から御祭神を還座創建された
この辺りでゆっくりまったりしていて、さてちょっと早いけど帰るかとフェリー乗り場へ向かうとかなり手前の辺りで謎の行列。まさかまさかと尋ねると「フェリーです」なんということでしょう……朝からの強風の為、一時的にフェリーが止まっていた為に発生した大行列。他に帰りの手段もなくただ諦めて行列の加わり、帰りの飛行機に間に合うかしらとドキドキしながら列が進むのに任せるのみ。
日頃の行いでしょうか、30分以上並びましたが、無事にフェリーに乗船し、広島駅にて解散となりました。
教訓・何事も余裕をもって行動しましょう!
よかったです。
ということで一泊二日広島旅行も楽しく終わりました。
何度行っても厳島はいいところであります。
広島の旅 その1
ここ数年GWは特に遠出をすることもなく(どこ行っても人混みで……)すごしてきましたが、Twitterのお友達から「広島県立美術館の『徳川名宝展』見に行こう!」とお誘いを受けました。
そういえば毎年のように厳島へ行っていましたが2年ほどご無沙汰。会いたい鹿もいるし、よろしいならば……
GWは厳島へ行こう!
ということになりました。
都内からは新幹線で4時間ですが、今回は一泊二日を有効に使おうと飛行機でびゅーんっと広島入り。
広島空港新しくなってから始めて行ったのですが、なんであんな山の中に作ったのか。前の場所のが便利だったよね?
さて、友人と広島駅で合流。
まずは、目的の県立美術館へタクシーで向かう。
午後からの天気は雨、しかも強くなるとのことで予定としてはあまり無理せずに、美術館後に昼食を摂って、広島城→不動院。翌日に厳島と計画していました。
毎度ながら行き当たりばったりで、下調べも適当なのはスマホという文明の利器があるがゆえの……というのは言い訳。
広島県立美術館は縮景園のお隣。以前、一人でぶらっと広島旅行したときにはホテルからてくてく歩いて前を通過したことがありましたので、場所はわかっている。お天気がよければ縮景園にも寄りたいな〜と思ったが雲行きは怪しい。
なかなか縁の無い岐阜市歴史博物館の所蔵する『関ヶ原合戦図屏風』をみようと意気込んでいたのですが、展示品の入れ替えがあり、ほんとに心底縁がない……
しかし、それ以上の展示品の数々この目でしっかり拝見できましたから、遠路はるばる広島まで行った甲斐はありました。天下取った徳川家ですから、いい物をお持ちです。ありがたやありがたや。
合戦図ではない屏風がいろいろ展示されていましたが「六曲一双」と説明書きがあるのに一隻しかない。というものも多くちょっとがっかりでした。前後期の入れ替えで左右の展示を交換したのでしょうか。せっかく屏風一双ならば、左隻右隻揃った展示が見たかった。図録にはちゃんと左右並んで入ってますので、そちらで我慢であります。
美術館を出ると結構な土砂降り。
広島城はすぐ近くですから雨の中をとぼとぼと移動。
広島城
雨とはいえGW。人出は多いです。
そういえば、2年前来た時も雨でした。
何度目かの広島城ですが、友人と共通した感想が〝刀の展示が増えた!〟
刀流行りなんですね、某ゲームすごいです。びっくり。
止まないどころか、雨足は激しくなる一方……移動にタクシーを使う。
不動院
重要文化財・楼門
にわか恵瓊さん好きです。
何度も広島に来ているのに、まだ一度も不動院を拝観したことがありませんでした。
本望であります。
道中、タクシーの運転手さんに「不動院行く人、初めてです」と不思議がられたのですが、国宝ですよ!安国寺恵瓊さんですよ!誰も行かないんですかね……
しかし、雨!
写真に撮っても雨は雨!
新日山安国寺 不動院の歴史
新日山安国寺不動院は江戸時代の「新山雑記」では、当寺の開基は僧空窓であると伝えられていますが、創建の時代や由緒については判然としていません。
ただ金堂ないに安置されている本尊薬師如来座像が定朝様式だることから、当寺は平安時代には創建されていたと推察されています。当寺が安国寺不動院と呼ばれる由縁は、足利尊氏、直義公兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺であったことに由来します。以後、安芸安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。
しかし、戦国時代の大永年間(1521〜27)、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。その後五十年は藁屋に本尊薬師如来を安置する有様であったと記録されています。
当寺を復興したのが、戦国大名、毛利氏の外交僧として、又、豊臣秀吉公直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊です。恵瓊はこの間当寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備し、寺運は隆盛を極めました。しかし、関ヶ原の合戦で西軍に組した恵瓊は非業の死をとげ、毛利氏も防長二国に国替えとなりました。恵瓊なき後、寺領は没収となり、寺運は次第に衰えてゆきました。
毛利氏が去った後、福島正則が芸備両国四十九万石の大名として入国し、正則公の祈祷僧である宥珍が入り、住持となりました。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を不動院と称しました。後に当寺院全体を不動院と称するようになりました。正則公の治世は二十年足らずで終わり、浅野氏が新しい国主として広島に入りました。以後藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受け、概ね安定した時期が続きました。やがて明治に至り、当寺は時代の権力者の手から離れ、庶民の信仰の場となりました。
原子爆弾投下に際しても、地理的条件が幸いして災禍を免れ、一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、昔の栄華を今も留める極めて貴重な存在となっています。
(門前説明書より)
国宝・金堂
天井の墨書から天文9年(1540年)の建築と判明する。屋根は入母屋造、柿(こけら)葺き。2階建てのように見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、桁行3間、梁間4間(「間」は柱間の数を意味する)の身舎(もや)の周囲に裳階をめぐらす。裳階は正面側の奥行1間分を吹き放しとする。不動院は密教寺院であるが、金堂の建築様式は典型的な禅宗様(唐様)であり、内部を土間床の一室とする点、中央を鏡天井とし、その周囲にぎっしりと組物が並ぶ天井の構成、桟唐戸、花頭窓、礎盤付き柱、扇垂木等に禅宗仏殿特有の形式が見られる。天井高は8.6メートルに達する。この堂は当初から不動院にあったものではなく、もとは山口市にあった禅宗寺院で大内氏の菩提寺であった凌雲寺にあった。それを天正年間(1573-1592年)、安国寺恵瓊が当地に移築したものである。原爆による大きな被害も受けず広島市内に現存する唯一の国宝である。
(wikiより)
金堂の中を覗き込んで重文の薬師如来座像も見てきましたが、かなりの大きさがある立派な像でした。一般公開しているときに明るい場所で見てみたいものです。
国宝だけあって、400年以上前の建築物と思えないほど重厚で立派な建物でした。
重要文化財・鐘楼
あまりにも鮮やかな色彩の建物だったので、てっきり近代の建造かと思っていたらこれも永享5年(1433年)の建築とのこと、塗り直しているとは思われますが、600年近く前の建造物。寺院や城巡りをしていると、同じ感想しか出てこなくなってしまうのですが、本当に日本建築って素晴らしいなと思うのです。
雨は降り続きもう他を回るのは無理だろうと、考えていたときに目に入ったのがこれ。
そうだった!恵瓊さんのお墓をお参りしなくては!と土砂降りの中、墓所へと足を伸ばす。
恵瓊さんは諸説ありますが、安芸武田家の出と言われています。不動院(安芸安国寺)は毛利元就によって滅ぼされた安芸武田家の菩提寺であります。感慨深いですね。
秀吉や信長は、日本中あちらこちらに墓所があるのですが、ここは遺髪とのこと。体が日本列島津々浦々ばらばらになっているようで、いいのかなそれで……
雨の中回った一日目の戦利品。
なぜ広島まで行って、屏風のクリアフォルダー買ってるのか自分でもよくわかりません!
ということで二日目に続きます。
トーハクへ『洛中洛外図屏風・舟木本』を見に行ってきました
『洛中洛外図屏風(舟木本)』はトーハクの所蔵品でありますが、平成28年度新たに国宝と指定されました。めでたいです。
そこで、今回トーハクでは新たに指定される国宝4件、重要文化財46件と、追加指定された重要文化財5件のうち、4件の国宝を含む52件を展示。
これは原本を直接見ることの出来る貴重なチャンス!
ということで、先週末に米沢で上杉本を見たばかりだというのに、上野へGO!上野近いです、米沢より全然近いです。
さて、いつもなら1階の仏像からゆっくりと回るのですが心は既に洛中洛外図屏風。さささっと軽く流しながら気持ちはすっかり2階8号室。
途中、作者不明、江戸時代の『洛中洛外図屏風(右隻)』がありましたので、パチリ。
『洛中洛外図屏風』は国内に100種くらいあるそうで、昨年トーハクで見たものともまた違うものですが、これもなかなかに立派。しかしなぜ右隻だけなのか。反対側にもしかして左隻?と移動してみたのですがありませんでした。右隻だけだとちょっと寂しい。
さて『国宝・洛中洛外図屏風(舟木本)』は撮影禁止です。単眼鏡を構えて隅から隅まで舐めるように見て参りました。
先週見てきた上杉本よりも地味に感じるのは金雲がくすんでいたせいかと思われます。上杉本の金雲きんきらきんでとても400年以上前のものとは思えない鮮明さでしたから、それと比べると舟木本は若干派手さには欠けます。しかし!京の都に集う人々の動きは賑やかです。さすが、浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛の作、都人の日常が生き生きと描かれています。場面場面がとても楽しい。
ミュージアムシアターで舟木本の要所要所を拡大して解説してくれる上映会がありましたが、これがなかなかに面白かったです。屏風に張り付いて単眼鏡で見てもよくわからない小さな場面をスクリーンいっぱいに拡大し、説明してくれます。今回は右隻だけでしたが、6月からは左隻を見せてくれるそうなのでまた行った時に寄ってみたいと思います。
さて、今回も屏風コーナーに行ってみました。
写真撮影OKの絢爛豪華な一隻。
◆大原御幸図屏風 長谷川久蔵筆 安土桃山時代16世紀
『平家物語』終盤の名場面。平清盛の娘で安徳天皇の母、建礼門院は洛北大原に庵を結び、源氏に滅ぼされた平家一門の菩提を弔う。そこに後白河法皇が秘かに訪ねる。草木の繊細な描写が、建礼門院の儚げな境遇と共鳴。長谷川等伯の長男久蔵の数少ない遺作だ。
他には
◆藤棚図屏風(六曲一双)狩野伯円筆 江戸時代18世紀
◆賀茂競馬・宇治茶摘図屏風(六曲一双)久隅守景筆 江戸時代17世紀
がありました。
人混みの中で立ち止まる事も出来ず流れて見学するという苦行もなく、今回もゆっくりと洛中洛外図屏風(舟木本)堪能することができました。