彦根・京都の旅 その1
一日目 彦根・三成フェス
3月26日に滋賀県で開催された『三成フェス』に参加すべく彦根までいってまいりました。岐阜在住のお友達が米原までわんこと一緒に迎えに来てくれ、もう一人の友人と三人で彦根・京都の旅一泊二日のスタートです。
まずは米原駅に降り立つとそこには……
滋賀県がめちゃくちゃ石田三成推しです。
もしかしてもしかすると大河の誘致を目指しているんじゃないでしょうかね。
お迎えの車に乗り込むと2匹のわんこがお出迎え。
お邪魔します、狭くしちゃってごめんなさいね。
『三成フェス』までは時間があるので、米原市世継の春日神社にある三成お手植えの藤を見学に。
まだ葉も出てない時期ですから、なんだかとても寂しい。満開の藤棚が見たいですね。
春日神社由来
世継(旧法性寺村大字世継字北材木)に鎮座す。
祭神天児屋根命なり嘗って奈良興福寺の僧仁秀当地に来たり興福寺を建立せし時、守護神として春日の神を勧請せるるものなり。
往昔社殿誠に壮大にして美麗帰向するもの多かりしが興福寺退転するに及び次第に衰退し世継三右エ門漸く鎮守として奉斎するに過ぎざり。
嘗って石田三成当地に参拝して藤一株を手づから栽植し祈念の印とせりとて傅えて今に培養を怠らず。大に繁茂す。
正保四年協議の結果 今の地に遷座し北世継の産土神として尊崇す。
現在の社殿は其の当時の再建に係わるものなり。明治初年当時は戸長、時世一変せるを以って古記録等の必要なしとて焼却し煩雑よる逃れんとせり。されば其の由来縁起等、充分知り難し。
祭礼は蛭子神社と同じく毎年五月一日、九月十七日の両度とす。
と、案内より引用。
美味しい親子丼を昼食にいただき、いざ『三成フェス』へ!
滋賀県はとってもゆるきゃら多いような気がします。
おそらく元祖ゆるきゃら・ひこにゃんのせい……
三成のイベントに駆けつけた友情出演のよっしー、敦賀市の広報の方が名刺を配ってました。
県知事の「満月になれない三日月です」ってきっといろんなところで掴みに使ってるんだろうな、と思いつつ楽しい知事さんでちょっとうらやましい。
基調講演「今、石田三成を再評価する」静岡大学名誉教授 小和田哲男先生のお話。
屏風関係の本もたくさん書かれていらっしゃいますが今回は屏風の話はないだろうと、拝聴いたしました。
以下レジュメ
今、石田三成を再評価する
1.敵(徳川方)も石田三成を「義の人」とみていた
徳川光圀の証言
「石田治部少輔三成は、悪からざるもの也。人各その主の為めにすと云う義にて、
心を立て事を行ふもの、かたき成とて悪むべからず」(『桃源遺事』)貶められたのはなぜか
「歴史は勝者が書いた勝者の歴史」
「神君中心史観」2.三成の四つの功績
豊臣政権諸政策の牽引車として
「計数の才」を生かして兵站奉行として
都市計画のプランナーとして
諸大名と秀吉の取次役として3.三成の人となり
清廉潔白な人がら
島左近を高禄で召し抱える
三成の危機管理能力
領主として誠実な百姓との接し方
「何事によらず、百姓めいわくの儀あらば、そうじゃなしにめやすを以、にはそうせう可仕候。如此申とて、すぢなく事申上候はゝ、きうめいの上、けつく其身くせ事たるべく候間、下にてよくせんさく候て、可申上候事」(「石田三成村掟条々」)4.関ヶ原の戦いと三成
武功派との軋轢はなぜ生まれたか
三成の豊臣家世襲路線と家康の「天下はまわりもち」
「負けるとわかって突っ込んだ」はまちがい
家康の根回しに負けた三成
内容的には初心者向け石田三成という感じで大変わかりやすいお話でした。
次がパネルディスカッション「石田三成×滋賀県」
パネラー 元NHKエグゼクティブアナウンサー:松平定知さん
NHK大河ドラマ「真田丸」制作統括:屋敷陽太郎さん
歴ドル :小日向えりさん
コーディネーター 滋賀県立大学教授 中井均先生
上手に面白おかしく仕切っていた中井先生の講義聴いてみたいと思いました。
注目の「真田丸」の中で三成はどういう描き方をされるかという質問には「主人公の友人としての出演なので悪いようになならない」とのこと、官兵衛の時とは違う大河三成が見られそうです。楽しみです。
あとは抽選会などありましたが、くじ運は無い人ですのでお察しでございます。
ではお土産物など見に行こうかと、彦根の戦国丸へ。
隣の「治部少丸」にて関ヶ原合戦図屏風のレプリカを発見。
彦根博物館所蔵のものですね。これ贅沢にも裏側が……
同じく彦根城博物館が所蔵している大坂夏の陣図屏風(若江の戦い)がががが(笑)
リバーシブルレプリカ!
欲しいです、これ!マジで!!
ここにある墨絵の三成がとてもかっこいい。
すばらしい躍動感!
隅っこの小さいサインがおそらく真田丸三成役の山本耕史さんのものではないかと。
そういえば三成フェスで何度も「山田……山本耕史さん」と言い間違えられていてちょっとお気の毒でした。
夜は焼肉で盛り上がりつつ、ひこにゃんに別れを告げて夜のうちに京都へと移動。
2日目は京都の戦国武将関係寺院を回りました。
つづく〜
合戦図屏風研究の今後
何か新しい情報や史料はないだろうかと時々「合戦図屏風」でググってみたりしています。
ここが引っかかったりして、そうじゃない!私の探しているのはそれじゃない!と怒りつつあっちこっち覗き回っています。
以前も書きましたが合戦図屏風の研究自体が近年に始まったばかりですから、論文も少ないです。
と、思っていたらこんなサイトを発見しました。
2016(平成28)年度 東京大学史料編纂所 特定共同研究 共同研究員募集要項
今年度の共同研究員を募集している項目を確認すると……
『複合史料領域 ○戦国合戦図の総合的研究』
おおおおお!三年掛けて屏風を含む戦国合戦図の研究をするということですね!
7.課題の概要(400 字程度) (この項は広報等に利用・掲載することがあります)
中近世武家社会において作成されたさまざまな「合戦図」について、屏風絵あるいは 合戦地図、そのほか主として武家文書群などに含まれるいくさにかかわる画像史料を広 く収集・検討し、それぞれの描かれ方や諸本の系統、そこに描かれた内容などを研究する。それぞれの「合戦図」の典拠となる情報(軍記・家伝など)を追究し、これらがいかなる理由で作成されたのか、(近世)武家社会における「戦国合戦」に対する歴史認識、 また武家社会においてこれら「合戦図」が作成された歴史的意義について明らかにする。 またたとえば屏風絵(合戦図屏風)や合戦地図を比較検討することにより、これらが相互に関係していたのかどうかなど、個々のジャンルの「合戦図」の史料的性格を可能な かぎり明らかにする。
ああ!こういう資料を読みたいと思っていたのです!これから研究が始まるということは……今まで研究されてなかったんだ、やっぱり。資料ないわけだ。
合戦図屏風はただの戦国史の挿絵ではなく、そこにはどんな歴史的な意義があったのか。江戸時代後期に量産された意味は。すごく知りたい辺りです。
「合戦図」の研究は、合戦図屏風に関心のある文献史学の研究者、および絵画史料の 歴史研究者はもとより、中世・近世各時代の研究者、また軍記・兵学といった国文学・ 思想史研究者が垣根を越えて取り組む必要がある。
すごくツボです!そうなんです。史学だけではなく様々な方向からの研究が必要になるのが戦国合戦図だと思うのです。
11. 研究成果の公開計画 可能なかぎり史料編纂所所蔵の「合戦図」を撮影し、これらをデータベースを介して公開 する。また共同研究員各自がそれぞれの関心から「合戦図」の研究を進め、論文集のようなかたちでまとめる。
今後の研究がとても楽しみです!三年後に何らかの形で発表されるであろう論文を楽しみに生きていこうと思いました。
屏風の研究はこれからだ!
トーハクへ友松の屏風を見に行ってきました
トーハクの屏風絵のコーナーが好きなのですが、今回は海北友松ということで行かねば!
◆宮女琴棋書画図屏風(六曲一双) 海北友松筆 安土桃山〜江戸時代16〜17世紀《重要文化財》
琴棋(囲碁)書画の四芸は教養人必須の風流事とされ、とくに室町期以降、日本で好画題となった。通常男性文人が描かれるが中国の官女の姿に換え、琴は包まれたまま碁は右端に放置。着色と水墨の並置も独特だ。桃山絵画界を代表する友松の魅力あふれる傑作。
海北友松の経歴って面白いですよね。武家に生まれながらも僧となりさらには絵画の腕を認められて画家となった人です。
浅井氏家臣・海北綱親の五男として生まれる(三男説もあり)。天文4年に父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で修行。このときに狩野派を学んだらしい。師匠は狩野元信とも狩野永徳ともいわれているがはっきりしない。天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡し兄達も討ち死にしたのち、還俗し海北家の再興をめざしたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去り、晩年は画業に専念した。
東福寺で退耕庵主であった安国寺恵瓊と親しくなったと思われます。
乱世にジョブチェンジした画家の生涯がどんなであったのか、とても興味あるところであります。
『戦国の陣形』を読みました
一次資料を具体的に提示しながら理路整然と定説をひっくり返す新説は興味深かったです。合戦過渡期から徐々に陣形が成立していくようすもわかりやすく書かれていました。特に「八陣」の解釈や、「魚鱗の陣=びっしりの陣・鶴翼の陣=ばっさりの陣」というのは目から鱗。
しか〜し、私が興味を強く抱いたのはやはり陣形ではなく屏風だった!
表紙が川中島合戦図屏風(岩国歴史美術館所蔵)のものですからそっちかと思うでしょ。違うのです、関ヶ原合戦の新解釈からのぉ津軽屏風、妙に納得しました。
つまるところ関ヶ原合戦です。
新釈引用
西軍が布陣を整える前に秀秋の裏切りがあり、あっけなく勝敗が決したのである。
著者の新説によると、通説通りの布陣はなされないまま先に小早川秀秋離反の動きがあり、大谷隊陣所へと西軍が動いたところを小早川・朽木・小川・脇坂・赤座隊に挟撃され流動的に短時間で関ヶ原合戦は終了したのではないか。
この解釈から考えると、江戸時代後期に軍記物を手本として描かれた各武将が勇ましく戦場を飾る関ヶ原合戦図屏風のような場面は存在しないということになります。
果たしてこれはどういうことか。
ここで、関ヶ原合戦図屏風の中で唯一〝合戦直後〟に描かれたと伝わる津軽屏風の構成を確認してみましょう。
右隻・赤坂:東軍陣営、大垣城:西軍陣営
左隻・敗走する西軍兵
なぜか合戦ど真ん中の描写がなく、また弘前藩の史料『藤田氏旧記』によるとかつては八曲二双あったとも伝わるため、失われた一双がありそこに合戦場面があったのではないかという説もあります。(元々八曲一双、という説も当然あります)
が!
著者の説の通りの展開であっさり合戦が終わったとすると津軽屏風八曲一双の構成で関ヶ原合戦図は全て語られたことになり、幻の一双がなくともなんの不自然さもないということになります。
私たちがドラマや小説でよく目にしている関ヶ原合戦は逸話や伝説が後世に付されたものとすると〝合戦直後〟に描かれた屏風の構成が納得いくものとなる。
いやぁどうしよう。
諸説あります。史料の解釈によって様々な捉え方があるのは充分理解していますが、こう気持ちよくカチッとハマると唸らざるを得ない。
知れば知るほど歴史って面白いですよね。
「合戦図屏風」の始まり
オクで入手しました。
会期:1979年とのことでもう37年も前の古い図録です。中をみますとほとんど白黒の図版でカラーは数枚。時代を感じます。
が!この特別展が今日の〝合戦図屏風〟の研究の始まりとなるもの。古典的な源平合戦とは区別された『戦国合戦図屏風』だけを集めた初めての展覧会。大変貴重な資料です。まさか手に入ると思わなかった。毎日オクの覗くのが日課となっているたまものですね。
現在、重文となっている関ヶ原合戦図屏風(津軽本)が「大阪・個人蔵」と記されているところがすごいです。津軽ではなく大阪、しかも個人宅にあったっていうのはどういうことなんだろう。犬山城の成瀬家では蔵の中から長篠合戦図屏風が出てきましたが、蔵を持っているような旧家には戦禍をくぐり抜けた古い時代の屏風がまだまだ眠っているかもしれません。
『戦国のゲルニカ「大坂夏の陣図屏風」読み解き』を読みました
『重要文化財・大坂夏の陣図屏風』は歴史の大きな境目となる大合戦の「大坂夏の陣」を描いた六曲一双の大きめな屏風です。黒田家伝来の為、通称「黒田屏風」と言われています。
合戦図屏風で「重要文化財」指定されているのは、この『大坂夏の陣図屏風』と『関ヶ原合戦図屏風』の津軽本の2点だけで、共に製作時期が合戦直後であり、歴史的にも美術的にも価値が高いと言われています。
『大坂夏の陣図屏風』は右隻に合戦に参戦した武将達と合戦の様子、左隻には逃げ惑う庶民や敗走兵を襲う徳川軍の様子が描かれています。合戦〝大坂夏の陣〟が語られるとき取り上げられるのは右隻であり、第六扇に描かれた大坂城めざし金雲の間にひしめき合う徳川軍とそれを迎え撃つ豊臣軍がメインとなります。しかし、この本で中心となり解説されているのは左隻に描かれている非戦闘員である一般庶民の悲惨な戦災の状況です。これが「戦国のゲルニカ」と言われる由縁となります。
本の中では、合戦の中心と離れた場所で発生していたその凄惨な描写が細かく解説されています。
他の江戸時代後期に量産された合戦図屏風が「祖先の勇姿を晴れ晴れしく表す」ことを目的とされていたことに対し、この『大坂夏の陣図屏風』は勝者である徳川家を讃えるものでも滅亡した豊臣家への哀悼でもなく城下の人々全てが巻き込まれたリアルな合戦のようすです。
この屏風の制作者(一説では黒田長政)はいかなる理由でこのような悲惨な合戦の状況を屏風という形で描き残したのか、400年も遡ってその心情を知ることは難しいことではありますが、両軍合わせて30万人、さらに罪のない大坂城下の市民30万人が巻き込まれた大決戦を冷静に後世に伝えることが務めと考えたのかもしれません。
敗戦した豊臣側ではなく徳川方がこの屏風を作ったということが感慨深いところであります。
大坂夏の陣図屏風を深く知りたいと思われましたらオススメの一冊です。
『神仏・異類・人 ー奈良絵本・絵巻にみる怪異ー』展へ行って来ました
國學院大學博物館は初めて行きましたが、広くて展示品も見やすく入場無料でいいのかしら?という充実した博物館でありました。
今回は企画展の方を目当てです。妖怪・怪異系の日本画はこれも芸術どうこういうものではなく楽しむべきと思うのです。
企画展の趣旨です。
日本には、ふるくから不思議な物語があります。たとえば、かぐや姫が月にのぼる物語、大むかでや鬼といった化け物を退治する物語、ねずみが人間のように生活刷る物語などです。
これらの物語では、人間だけではなく、神仏や鬼・妖怪などの異類も、さまざまな思いを抱えながら感情豊かに、また魅力的に活躍します。
こうした不思議な物語の多くは、諸町時代後期から江戸時代中期にかけて制作された彩色入りの写本[奈良絵本]に仕立てられました。その絵は、素朴で淡い色彩のものから、金銀などが使用された豪華絢爛なものまで種々さまざまで、現代に至るまで多くの人々の目を楽しませてきました。
本展示では、現実にはあり得ない不思議なこと[怪異]を描いた奈良絵本・絵巻を通して、物語のおもしろさや魅力を紹介します。
展示数はそれほど多くありません。20点ちょっとですので、少々物足りなさは感じましたが、私以外に観覧者もなく ゆっくりと1品1品を眺めることができて思う存分怪異を堪能しました。展示品全部、国学院大学の所蔵とのこと。
そもそも『奈良絵本』ってなんなのだろう、と調べてみました。
室町時代後期から江戸時代前期頃まで製作されていた絵入り彩色写本を、「奈良絵本」と総称している。明治以来、書肆やコレクターの間で使用されてきた名称だが、由来ははっきりしない。奈良絵本は、時代により形態や描き方が異なる。桃山時代から江戸時代ごく初期頃のものは、縦30cm前後の大型の冊子で、巻物の名残が見られるものが多い。寛永から江戸時代前期頃に製作され、御伽草子おとぎぞうし類に題材をとったものは、横本の形態である。文字の書き手、絵の書き手、表紙を付して装訂する職人などの分業体制で作られ、「間似合まにあい」と呼ばれる料紙が用いられている。寛文・延宝頃(1661-81)には大名や富裕層を対象に、金泥銀泥などを使用して極彩色で緻密に描かれた豪華な絵本も製作された。奈良絵本は江戸時代中期以降は次第に姿を消す。今日、美術史、文学史の両面から研究されている。
奈良絵本・丹緑本 | 第三部 楽しむ ~絵入り本の様ざま~ | 国立国会図書館開館60周年記念貴重書展 学ぶ・集う・楽しむ
奈良絵本楽しそうです。俄然興味が湧きました。
なお、年明けに後期展示となり展示品が多少変更されるので、また時間があればいってみたいと思います。
国学院大学は史学関係が充実していますので、常設展は古墳時代から現代までの祭祀に関わる遺物や、埴輪・土器などがびっくるするほどたくさん展示されていました。
予期せず、屏風と出会うと合戦図屏風でなくとも思いっきり眺めてしまいます。今回拝見しましたのは『御田植・巫女舞図屏風』なるもの、いつ頃の制作なのか説明書きにはなかったのですが豊作祈願のようすでした。なかなかに立派な屏風で、人物がデフォルメされておらずきちんと描き込まれていたのが印象的でした。江戸時代だろうな、あれは(About過ぎ……)
妖怪は可愛いです。
追記
その時いただいたパンフレットが豪華。
図録がなくても無料でこんなに素敵なパンフ配付していただけるのは嬉しい。