金雲のすき間

合戦図屏風より愛を込めて

関ヶ原・敦賀の旅 その2

2日目

 おはようございます!とワンコと一緒に大垣駅前までお迎えにきていただく。至れり尽くせりの旅行で恐縮であります。

 

ということで2日目はいよいよ敦賀へ!大谷吉継さん関係の史跡を見学に向かいます。

 

まずは赤坂の安楽寺へ「家康が寄進した大谷吉継の梵鐘」を見学に。
安楽寺は家康が関ヶ原合戦の戦勝祈願をしたお寺とのことで、至る所に葵の家紋があります。

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しか〜し、鐘楼を眺めて地元の友達がはてなマークを飛ばしまくっている。
「ここに説明書きが立っていて、鐘もこれではなかったはず」

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確かに鐘楼も補修されています。

 

ここでわかったことは、数年前に新しい梵鐘と掛け替えられ家康が寄進した梵鐘は残念ながら基本非公開とのこと。

 

撤去されていた説明書きには

大谷吉継が陣中の兵士の士気を鼓舞したり、

合図用に播州兵庫県)から持参した陣鐘で、

戦後徳川家康が戦利として安楽寺に
寄進した
歴史的にも由縁のあるものです

と、書かれていたようです。

さて、車は杭瀬川を渡り、垂井で半兵衛さんと出会ったぁ。

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櫓門の中は学校で関係者以外立ち入り禁止です。現役で校門っていうのもなかなか凄い。

 

さらに半兵衛の菩提寺へと進みます。

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竹中半兵衛墓所。墓石は小さな御堂の中です。

 

さて、途中、姉川を超え小谷城祉や賤ヶ岳を眺めながら敦賀へと向かいます。紅葉のシーズンで賤ヶ岳がとても綺麗でした。山並みが屏風のまんまで感激です。

 

ところで、小谷城祉の入口「戦国ガイドステーション浅井三代の里」に〝真柄の大太刀模造刀〟が飾られていて、お触り自由だったので持ち上げてみました。
……持ち上がりません!!!
長さといい重さといい、とても実用性があるように思えず、真柄さん本当にこんな大太刀振り回していたのでしょうか。重さ4.5kgですよ。お米なら三人家族が半月食べられますよ。ちょっとびっくりでしたが、あれ太郎太刀だったんだな。赤い線が入ってました。

 

同行のわんこをモフりつつ、敦賀へ到着。まずは腹ごしらえと「日本海さかな街」へと向かいます。蟹、越前カニを食べたい。

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めっちゃこっち見てますが、お前がご飯になるんだよ!

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かに丸ごと丼! 美味しかったです!!

 

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旧銀行の建物を利用した「敦賀市立博物館」と併設された「みなとつるが山車会館」〝山車〟を〝だし〟と読んだら〝やま〟でした。〝やまかいかん〟です。

 

敦賀市立博物館には関ヶ原合戦屏風がありますが、今回展示はありませんでした。他の博物館に問い合わせた時も「何しろ古い日本画ですので保存が難しく常設で照明を当てておくことはできません」とのことでしたので、おそらくこちらも今年は「大 関ヶ原展」であちらこちら遠征してますから倉庫でお疲れ休み中と思われます。2度ほど生で拝ませていただいておりますので、今年はもう充分であります。

 

お隣の山車会館には常設で「大谷吉継コーナー」があり各種書状のコピーが展示されております。大谷吉継さんは出自も不明で、もしかして都市伝説なのではないか?と心配ではありましたが、展示されていた書状の署名の「大刑少」を見ると大谷吉継は伝説じゃなかった!と実感出来るわけです。

 

さらに実感する旅は続きます。

 

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永賞寺、大谷吉継菩提寺

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立派な供養塔であります。1609年とのこと関ヶ原合戦後すぐに建立されていますね。

 

続きまして、八幡神社へ向かいます。ここの猫が人懐っこくて可愛かった。

ここには敦賀城に使われていた石。

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奉納された大谷吉継像。

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結構工事中のお寺が多かったのは何かあるのでしょうかね。

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ここも思いっきり工事中でした。真願寺。敦賀城礎石があります。

 

来迎寺。敦賀城にあったとされる中門。

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ちょっと走ったところに西福寺。
すごく古いかなり大きなお寺で建物にも感嘆しましたが、お庭がまた素晴らしい。

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あれ?ここには何があったんだっけ?と確認したところ〝書状〟ああ、書状はきっと公開してないよね……と寺内拝観したあとに気がつきました。前回、観音寺を拝観したときはちょうど特別公開で石田正継や浅井長政の書状が拝見出来ましたが、あれは本当にたまたま運がよかっただけ。

 

ということでそろそろラストかな〜とぐるり回って敦賀湾を見渡せる、常宮神社へと向かいました。

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紅葉がめちゃくちゃ綺麗でした!写真のセンスがなくてもったいない。

 

ここには吉継が秀吉の命により奉納したと言われる朝鮮鐘(国宝)があるのですが……

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当分の間、非公開!!!鐘にご縁がありません。

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再び、山車会館へ戻り、

福井県・戦国歴旅カードコレクション【9月19日開始】|越前町オフィシャル観光ガイド えちぜんなび.com

これでカードを集めながら進んでいたわけですが最後の大谷吉継プラチナカードをちょっとチョンボでいただいて帰路へつきました。

 

東京在住ですので、福井なんて行くこともないだろうと思っていたのに思いがけずお声かけいただき、紅葉の季節、綺麗な山並みを眺めながらのワンコと一緒のドライブ。楽しかったです。案内していただいた某切り絵師さんには感謝感謝であります。

 

 

 

 

 

 

 

 

関ヶ原・敦賀の旅 その1

一日目

 世の中は連休で「よし行こう!」となった時にはすで彦根のホテルはどこも満室。さてどうしたものかと、相談したところ大垣に一泊することに。予約した新幹線よりも一本早いものに乗れそうだったのですが、そちらももう満席で変更も出来ず諦めて予定通りゆっくり出発となりました。

 

地元・岐阜にお住まいのお友達の案内でまずは米原から直行佐和山城祉。

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前回、龍澤寺までしか入らず佐和山登山を見送ったので今回は山頂まで行きたい!ということでお友達とワンコ2匹と私とで登山開始。大した登山じゃありません、わかっていますが私は日頃の運動不足とそこそこヤバイ年齢なもので途中から足が上がらなくなるわ、息が切れるわ、酸欠で目眩するわ、と見た目以上に結構ないっぱいいっぱいになる。わんことお友達(若い)はずんずん上がって行くので笑いながら必死に着いて行きました。

 

お約束の石田三成さん。

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佐和山城祉に辿り着いてみれば宮島の弥山よりは全然楽なはずなのですが、年々衰える身体に抗うことも出来ず……
お天気は晴天天晴れ!というほどではなかったので遠景がもやってます。

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ちょうど中央に霞んで見えるのが伊吹山。この形は!関ヶ原合戦図屏風の伊吹山と同じ形ですよ。描かれているのは関ヶ原側から見た山のはずなのですが、どこからどう見ても伊吹山

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下りは余裕だったのでやっぱり運動不足です。普段からもっと歩かなくてはいけないなぁと思うのはおそらくその場だけです。

 

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ぐるりと回り込んで、石田三成屋敷跡。

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史跡らしいものもなかったですが、確かな目印はしっかりと存在。

 

さらに、三成のお茶の井。

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案内してくださったお友達に「そこです」って教えてもらわなかったらわからない井戸跡。

 

爽やかなドライブ日和(助手席)ここから関ヶ原へと向かいます。

 

前回来たときは仮住まいで学校の校舎を背にしていた藤堂高虎京極高知陣が正式な場所へ移動しましたがやはり学校の敷地内。校門を入って右手にありました。

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 史跡は時々〝なんでそんなところに?〟って場所にあったりしますが、考えてみれば現代人が後からそこで生活を始めたわけですから向こうさんの方が〝そこ?〟なのですよね。

 

関ヶ原行くなら何度でも行っておかないとねと笹尾山へ移動。今回はごめんなさい、吉継さん。墓所までは行かれません。佐和山で体力使い果たしました……

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 笹尾山、左近陣。

 

三成陣から関ヶ原を望む。

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現場に立ってみると西軍総指揮取るには見晴らしもよく絶好のポジションですよね。

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さて、ここまで来たなら噂のアレを見なくては!と関ヶ原駅前観光交流館へと向かいます。

 

屏風好きとしてはなぜか外せなかった、自販機。

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これと関ヶ原町歴史民俗資料館のレンタル自転車置き場は屏風好きの心を揺さぶります。関ヶ原町所蔵の合戦図屏風は直政さんところの赤揃いのおかげで華やかでデザイン性もありグッズ展開が心憎いです。クリアフォルダとメガネ拭きを買って帰りました。

 

だんだん暮れてくる日と戦いながら次は垂井の恵瓊陣へと向かいました。前回は垂井まで回りきれなかったので南宮山は初めてとなります。

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関ヶ原町本でしたら第一扇の下部にあるこの鳥居。これが南宮山です。

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広家や秀元、恵瓊さんは描かれていないのですが、南宮山の鳥居だけはあります。

 

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南宮神社、歴史ある立派な神社でありました。

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かなり日も暮れてきたし、ハイキングコース片道1時間かかるし、佐和山でエネルギー使い切っちゃったし、でさすがに山頂の秀元陣までは行かれませんということで、南宮神社奥にあります安国寺恵瓊陣だけ確認してきました。

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 恵瓊さんは、大河・軍師官兵衛でぐっと来るものがありました。力が物言う戦国時代に外交僧として交渉の場に立ち駆け引き、豊臣時代には僧でありながら大名となり関ヶ原後斬首というのは他の戦国武将にはない立ち位置で興味深い物があります。これだから歴史調べるのはやめられない。

 

途中、広家の陣を眺めつつ(よそ様のお家が映り込んでしまってちょっと上げられません)宿の大垣へと向かいました。

 

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2日目は垂井から敦賀へ向かいます。

『物語をえがく』展に行ってきました

昔よく近くを通って通勤していたのですが、中に入るのは初めての根津美術館。和風庭園がとにかく綺麗。時間があればカフェでゆっくりとお庭を眺めるのもよし。

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さて、目的は〝屏風〟です。
合戦図屏風だけじゃなかったの?と思われても仕方ないわけですが、最近特に屏風が表現するものにとても興味があります。いわゆる日本画の大きさではなく、一間近い大きさに様々な情報が同時に存在しているわけで、ただ鑑賞するだけではもったいない。もちろん美術的な鑑賞の仕方も好きですよ、うっとりと金雲眺めているのは心洗われます。小さな額の中ではない大きな画面で作者の発したかったことはなんなのだろうと考えるとわくわくします。特に日本画の贅沢な空間の取り方は、みっしりと細部まで描き込まれた洋画にはない独特の表現方法でその間に余裕を感じるものであります。

 

ここではなくトーハクで拝見した屏風は右隻には崖の上に羽根を広げる鵜、一方左隻は小さな飛ぶ鳥だけという圧倒的空間でしたが、二次元表現になりがちな日本画の中でもの凄い立体感を感じられました。美術は本当に素人でこれまで何も学んで来ませんでしたが(理系女子です)屏風にはなぜ心奪われるのでしょう。謎であります。

 

さて『物語をえがく』展です。
ー王朝文学からお伽草子までーということで古くは伊勢物語源氏物語墨画から絢爛豪華な着色まで。源氏物語は物語も長くそれぞれに見せ場となる場面があるのでそれを屏風にどう織り込んでいくのか、金雲による場面転換で贅沢に表現される平安絵巻はどのようは御屋敷のどのようなお部屋に飾られていたのかなと気になるところであります。
絵巻も絵本のようで草書が読めなくとも絵だけで充分読み取れます。

 物語は、古くから絵に描かれ、楽しまれました。たとえば、伊勢物語の存在がはじめて文献城に知られるのは源氏物語のなかですが、そこにおいて伊勢物語はすでに絵巻として登場します。もちろん源氏物語も、成立後まもなく絵に描かれ始めたと考えられています。また、中世まではもっぱら絵巻や冊子、色紙と言った小画面に描かれた物語絵は、近世になると大画面の屏風にも描かれるようになり、物語が室内を彩りました。

 このたびの展覧会では、伊勢や源氏の王朝文学から平家物語、曾我物語、西行物語、そして酒呑童子をはじめとするお伽草子まで、さまざまな物語を描いた多彩な形式の絵画作品を集めます。晩秋のひとときを、物語と絵とともにお過ごしください。
(出品目録より) 

 楽しかったです。
ご興味のある方は是非に!

賤ヶ岳七本槍を合戦図屏風から考える

賤ヶ岳合戦図屏風も関ヶ原合戦図屏風同様に写しが多々有り、さらにちょっとずつ内容が違うという複雑怪奇な様相を呈しております。

屏風によって〝七本槍〟のメンツが違う。なぜなのか。

ということで、ちょっと賤ヶ岳合戦図屏風について調べてみました。

  

現存する賤ヶ岳合戦図屏風はというと 

大坂城天守閣 甲本
馬の博物館 大阪城甲本の写本
佐藤博物館 大阪城甲本の写本 

 

大阪城天守閣 乙本(甲本の簡略版)
市立長浜城歴史博物館 大阪城乙本と同系の写本
南蛮文化館 大阪城乙本と同系の写本
勝山城博物館 大阪城乙本と同系の写本 

 

岐阜県立博物館 独自の図様

 

岐阜県個人蔵 独自の図様

 この辺りのようです。

 

賤ヶ岳合戦での活躍により感状を授受した武将です。

福島正則
加藤清正
加藤嘉明
片桐且元
糟屋武則
脇坂安治
平野長泰
桜井佐吉
石河平助

九人いますが桜井と石河は討死しているので残る七人が〝七本槍〟とされています。

 

ところがです。

大阪城甲本 

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福島正則を除き、桜井佐吉を入れての七本槍となっています。
では正則どこにいるのかと探すと……

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もう既に一番槍の一仕事終えて武功の首持って秀吉様の下へと馳せ参じているところなのです。

 

対して、岐阜県立博物館

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桜井の代わりに福島が入っています。

 

なぜこのような齟齬が発生してしまったのか。

それは合戦図屏風の元ネタの違いからということのようです。
大阪城天守閣甲本は『川角太閤記』、岐阜本は『賤ヶ岳合戦記』を元に描かれていると言われています。

 

ちょっと七本槍から話がずれますが、

『川角太閤記』は紀州藩初代藩主徳川頼宣に仕官した川角三郎左衛門宗直が、主君の諮問に応えて提出した秀吉に関する聞書を元に成立した軍紀と推測される。この書は幕末に至るまで世に流布した形跡がないので、江戸時代前期に成立した大阪城甲本は、紀州徳川家の周辺で製作された可能性が高い。

高橋修編著(2004)『歴史群像シリーズ特別編集 決定版 図説・戦国合戦図屏風』学習研究社

屏風に描かれた内容から制作の推測まで進むのは驚きです。

 

本来九人が感状を授受するほどの活躍を見せた合戦ですから本来九本槍が正しいのかと思われますが、どうもこの屏風が制作された時代には〝七本槍〟が流行していたらしくよく見ると、岐阜本には柴田側の七本槍も書かれています。また、姉川合戦図屏風にも〝姉川七本槍〟が描かれており、もしかしてもしかすると〝七本槍〟は現代の◯◯レンジャー的な戦隊物の原型なのではないでしょうかね。

 

『春画展』見てきました

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先月になりますが、話題の『春画展』へ行ってきました。

ここに限らず平日の美術館や博物館へ行くとシルバー世代の方々が多いので驚きますが、みなさんお元気でいい老後をお過ごしです。そんな婆さんになりたいと常々思っている次第であります。

今回もたくさんのお年寄りに囲まれつつ春画を鑑賞してまいりました。

永青文庫ですからそれほど広い会場でもなくというかむしろ狭い。狭いところにもってきて見学者がひしめき合っているのでなかなかゆっくり鑑賞することも出来ず歯がゆい感じでありました。

むしろ永青文庫の建物の方に興味が行ってしまってキョロキョロそっちばかり眺めてしまいました。

もうね、春画は図録買って帰ってお家でゆっくり鑑賞しようという……

まあ仕方ないのかなぁという混雑ぶりでした。それでも鳥獣戯画展より遙かにマシでしたからね。いろいろ諦めました。

春画は芸術なのかわいせつ物なのか、という論争もあるようですが、私が感じたことはただ一言

〝日本人って昔から二次元好きだったんだね〟

ってことでしょうか。

「わいせつ物だ!」と目くじら立てて否定したり排斥するものではなく、日本のサブカル文化の源流として暖かく見守るものなのではないかと思うのです。心の余裕で楽しむのが筋なのではないでしょうかね。

〝戦国合戦図屏風〟研究の成り立ち

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『特別展 戦国合戦図 屏風の世界』(1997)和歌山県立博物館

これをずっと探していたのですよ。
いろいろな資料をみていると必ず参考文献に名前を見るのですが、実物がなかなか手に入らず……国会図書館のコピーしかないかなぁと思っていたら、オクに出品されました!なんとか落札して無事入手!

18年前なんて自分が〝合戦図屏風〟に興味を持つようになるなどと思いも寄らなかった頃なので当然この特別展は知る由もなかったわけですが〝合戦図屏風〟の研究に関して大変重要な特別展であったということをいろいろな資料を読みあさるうちに理解しました。

以下、図録からの引用。
戦国合戦図屏風の研究が進められた歴史となります。

歴史学の分野ではこれまで戦国合戦図屏風そのものの史料性を真剣に吟味してきたとは言い難い。歴史家が文献資料を引用し、まして図版まで掲載する場合には、当然その成立背景や伝来についての厳しい史料批判を前提とする。

合戦図屏風に描かれているものは必ずしも史実と一致しない事が多いですし、歴史学的には蚊帳の外だったのでしょう。

では絵画史の分野では、戦国合戦図屏風が正当に評価され、学問的に見当されてきただろうか。確かに絵画史の研究者は古くから戦国合戦図屏風の中に優れた作品があることに注目し、それらを桃山・江戸の絵画史の中に位置づけようとしてきた。しかし彼らが取り上げるのは決まって大阪市立博物館(2001年閉館)蔵(現:大阪歴史博物館所蔵)「関ヶ原合戦図屏風」や大阪城天守閣蔵「大坂夏の陣図屏風」といった際立った名品ばかりであり、戦国合戦図屏風を総体として把握し、群として検討しようとする視角を欠如してきたといわざるをえない。

どちらの合戦図屏風も重要文化財ですので納得です。

こうした状況の中で、先駆的業績として、まず評価されなければならないのは、大阪城天守閣で1979年に開催された特別展「戦国合戦図屏風」展であろう。そもそも戦国合戦図屏風という作品が群として世の中に存在すること自体、同展が世に示したと言っても過言ではない。

ここれが〝合戦図屏風〟研究の始まりという事らしい。

ついでこの展覧会の成果を発展させるかたちで、1980年『戦国合戦絵屏風集成』全六巻(中央公論社)が刊行された。屏風絵の細部までカラー図版で確認することが可能になったばかりではなく、歴史・絵画史の研究者がここの作品について考察した結果を持ち寄り、戦国合戦図屏風をめぐる学問的認識を一挙に高めている。またこれらの仕事に触発されるかたちで、全国で多くの戦国合戦図屏風が新たに発見されることにもなった。かつては二十件程度と把握されていた作品数も、今回の調査で七十件近くにまで増加している。

 『戦国合戦絵屏風集成』入手済です。35年も前の物ですが、資料として充分なボリュームです。たぶん現在の技術で再版していただけたらもっともっと綺麗な印刷になるのだろうな〜と思うので、所蔵など詳細な部分に変更は必要となるでしょうが是非是非お願いしたいところです。

そして、この図録の展覧会の意義として

この「戦国合戦図屏風の世界」展は、こうした先駆的な成果を継承・発展しようとする意図で企画された特別展である。 

 見たかったです、合戦図屏風の集大成のような展覧会。

 

この図録、屏風絵そのものの図版にまして、合戦図屏風の背景・解説も詳しく書かれ、読みごたえあります。

楽しいです、屏風♪
また合戦図屏風だけ集めた展覧会やって欲しいですわ。

『うらめしや〜 冥途のみやげ展』見て来ました

東京芸大美術館にて幽霊画堪能してきました。

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明治の噺家三遊亭圓朝菩提寺である谷中・全生庵に所蔵されている圓朝が蒐集した幽霊画コレクションの展示であります。

全生庵幽霊画は比較的に日本人の幽霊の典型を描いており、妖怪とまぎれるようなものもない。

 とのこと。

 

幽霊と妖怪は区別されるべきもので、幽霊は他界の存在、妖怪は異界の存在であり、妖怪が精霊信仰の産物であるのに対して幽霊は人間社会が生み出したもの。

 幽霊と妖怪は別物なのですね。なるほど覚えました。

「うらめしや〜」と言うくらいですから、幽霊は人間の感情としての<うらみ>の表現であることを考えるとなるほど妖怪はあれ人を驚かせて楽しんでいる感じがします。
ということで幽霊画はおどろおどろしいものから美人画まで幅が広く堪能して参りました。
『講談・四谷怪談』のビデオ上映もありました。もう少し大きな画面で見たかったですが、講談に興味を持ったので機会があったら生で拝聴したいものです。

図録となぜか妖怪本を購入して帰りました。

 

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