金雲のすき間

合戦図屏風より愛を込めて

広島の旅 その1

ここ数年GWは特に遠出をすることもなく(どこ行っても人混みで……)すごしてきましたが、Twitterのお友達から「広島県立美術館の『徳川名宝展』見に行こう!」とお誘いを受けました。

そういえば毎年のように厳島へ行っていましたが2年ほどご無沙汰。会いたい鹿もいるし、よろしいならば……

GWは厳島へ行こう! 

ということになりました。

 

都内からは新幹線で4時間ですが、今回は一泊二日を有効に使おうと飛行機でびゅーんっと広島入り。

広島空港新しくなってから始めて行ったのですが、なんであんな山の中に作ったのか。前の場所のが便利だったよね?

 

さて、友人と広島駅で合流。
まずは、目的の県立美術館へタクシーで向かう。
午後からの天気は雨、しかも強くなるとのことで予定としてはあまり無理せずに、美術館後に昼食を摂って、広島城不動院。翌日に厳島と計画していました。

毎度ながら行き当たりばったりで、下調べも適当なのはスマホという文明の利器があるがゆえの……というのは言い訳。

 

広島県立美術館縮景園のお隣。以前、一人でぶらっと広島旅行したときにはホテルからてくてく歩いて前を通過したことがありましたので、場所はわかっている。お天気がよければ縮景園にも寄りたいな〜と思ったが雲行きは怪しい。

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なかなか縁の無い岐阜市歴史博物館の所蔵する『関ヶ原合戦図屏風』をみようと意気込んでいたのですが、展示品の入れ替えがあり、ほんとに心底縁がない……

しかし、それ以上の展示品の数々この目でしっかり拝見できましたから、遠路はるばる広島まで行った甲斐はありました。天下取った徳川家ですから、いい物をお持ちです。ありがたやありがたや。

合戦図ではない屏風がいろいろ展示されていましたが「六曲一双」と説明書きがあるのに一隻しかない。というものも多くちょっとがっかりでした。前後期の入れ替えで左右の展示を交換したのでしょうか。せっかく屏風一双ならば、左隻右隻揃った展示が見たかった。図録にはちゃんと左右並んで入ってますので、そちらで我慢であります。

美術館を出ると結構な土砂降り。
広島城はすぐ近くですから雨の中をとぼとぼと移動。

 広島城

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雨とはいえGW。人出は多いです。

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そういえば、2年前来た時も雨でした。

何度目かの広島城ですが、友人と共通した感想が〝刀の展示が増えた!〟
刀流行りなんですね、某ゲームすごいです。びっくり。

止まないどころか、雨足は激しくなる一方……移動にタクシーを使う。

 不動院

重要文化財・楼門

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にわか恵瓊さん好きです。
何度も広島に来ているのに、まだ一度も不動院を拝観したことがありませんでした。
本望であります。

道中、タクシーの運転手さんに「不動院行く人、初めてです」と不思議がられたのですが、国宝ですよ!安国寺恵瓊さんですよ!誰も行かないんですかね……

しかし、雨!
写真に撮っても雨は雨!

新日山安国寺 不動院の歴史

 新日山安国寺不動院は江戸時代の「新山雑記」では、当寺の開基は僧空窓であると伝えられていますが、創建の時代や由緒については判然としていません。
 ただ金堂ないに安置されている本尊薬師如来座像が定朝様式だることから、当寺は平安時代には創建されていたと推察されています。当寺が安国寺不動院と呼ばれる由縁は、足利尊氏、直義公兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺であったことに由来します。以後、安芸安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。
 しかし、戦国時代の大永年間(1521〜27)、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。その後五十年は藁屋に本尊薬師如来を安置する有様であったと記録されています。
 当寺を復興したのが、戦国大名、毛利氏の外交僧として、又、豊臣秀吉公直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊です。恵瓊はこの間当寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備し、寺運は隆盛を極めました。しかし、関ヶ原の合戦で西軍に組した恵瓊は非業の死をとげ、毛利氏も防長二国に国替えとなりました。恵瓊なき後、寺領は没収となり、寺運は次第に衰えてゆきました。
 毛利氏が去った後、福島正則が芸備両国四十九万石の大名として入国し、正則公の祈祷僧である宥珍が入り、住持となりました。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を不動院と称しました。後に当寺院全体を不動院と称するようになりました。正則公の治世は二十年足らずで終わり、浅野氏が新しい国主として広島に入りました。以後藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受け、概ね安定した時期が続きました。やがて明治に至り、当寺は時代の権力者の手から離れ、庶民の信仰の場となりました。
 原子爆弾投下に際しても、地理的条件が幸いして災禍を免れ、一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、昔の栄華を今も留める極めて貴重な存在となっています。
(門前説明書より)

 

 

国宝・金堂

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天井の墨書から天文9年(1540年)の建築と判明する。屋根は入母屋造、柿(こけら)葺き。2階建てのように見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、桁行3間、梁間4間(「間」は柱間の数を意味する)の身舎(もや)の周囲に裳階をめぐらす。裳階は正面側の奥行1間分を吹き放しとする。不動院密教寺院であるが、金堂の建築様式は典型的な禅宗様(唐様)であり、内部を土間床の一室とする点、中央を鏡天井とし、その周囲にぎっしりと組物が並ぶ天井の構成、桟唐戸、花頭窓、礎盤付き柱、扇垂木等に禅宗仏殿特有の形式が見られる。天井高は8.6メートルに達する。この堂は当初から不動院にあったものではなく、もとは山口市にあった禅宗寺院で大内氏菩提寺であった凌雲寺にあった。それを天正年間(1573-1592年)、安国寺恵瓊が当地に移築したものである。原爆による大きな被害も受けず広島市内に現存する唯一の国宝である。
wikiより) 

金堂の中を覗き込んで重文の薬師如来座像も見てきましたが、かなりの大きさがある立派な像でした。一般公開しているときに明るい場所で見てみたいものです。

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国宝だけあって、400年以上前の建築物と思えないほど重厚で立派な建物でした。

重要文化財・鐘楼

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あまりにも鮮やかな色彩の建物だったので、てっきり近代の建造かと思っていたらこれも永享5年(1433年)の建築とのこと、塗り直しているとは思われますが、600年近く前の建造物。寺院や城巡りをしていると、同じ感想しか出てこなくなってしまうのですが、本当に日本建築って素晴らしいなと思うのです。

雨は降り続きもう他を回るのは無理だろうと、考えていたときに目に入ったのがこれ。

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そうだった!恵瓊さんのお墓をお参りしなくては!と土砂降りの中、墓所へと足を伸ばす。

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恵瓊さんは諸説ありますが、安芸武田家の出と言われています。不動院(安芸安国寺)は毛利元就によって滅ぼされた安芸武田家の菩提寺であります。感慨深いですね。

秀吉や信長は、日本中あちらこちらに墓所があるのですが、ここは遺髪とのこと。体が日本列島津々浦々ばらばらになっているようで、いいのかなそれで……

 

雨の中回った一日目の戦利品。

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なぜ広島まで行って、屏風のクリアフォルダー買ってるのか自分でもよくわかりません!

ということで二日目に続きます。