『俺たちの国芳 わたしの国貞』展へ行って来ました
そういえばBunkamura初めてだわ、と渋谷。
上野より近いのでよいです。
浮世絵、色も構図も絵柄もPOPです。
絵草紙であり、歌舞伎役者のブロマイドであり、舞台パンフレットであり、広告であり……ということは浮世絵というのは、どちらかといえば時代の最先端をいくポップカルチャーですよね。
芸術として認められたのは近年で、江戸時代はもっと庶民にとって身近な存在だったのだろうと。
国芳の猫可愛くて、グッズコーナーでガチャガチャやって踊る猫又の根付けゲットしてきました。あと猫骸骨となんとなく手拭いも(笑)
図録眺めつつ、江戸時代の流行を考えると楽しいですね。
屏風から始まって、日本画に非常に興味あるのですがまだまだ勉強不足です。
わからないことが多いからこそ日々その探求が楽しくもあります。今年は見に行きたい美術展・特別展がたくさんあり楽しい一年になりそうです。
彦根・京都の旅 その2
二日目 京都・戦国武将ゆかりの史跡巡り
東福寺塔頭の退耕庵を見たい!と事前に予約を問い合わせたわけですが残念ながら現在個人の拝観予約は受け付けていらっしゃらないとのこと、残念……
特別公開の4月12日〜18日はスケジュール的にちょっと無理ということで断念!
拝観したかったなぁ、作夢軒。
作夢軒:安国寺恵瓊が作った茶室。「忍び天井」や「伏侍の間」などがあり、関ヶ原
合戦前に石田三成や宇喜多秀家らと密談をしたといわれている。
ということで、東福寺はまたの機会。
豊国神社
豊国神社
京都市東山区に鎮座する神社。神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の指示により再興された。(wikiより)
なかなかに豪奢な神社でありますが、注目したいのは左にある方広寺と右の宝物館。
宝物館
豊国神社の右奥にあります宝物館には、秀吉の七回忌の臨時祭礼の様子が描かれた重要文化財「豊国祭礼図屏風」六曲一双が展示されています。
祭主ともいえる豊臣秀頼が片桐且元を奉行に命じ、豊臣家の御用絵師であった狩野内膳に描かせた屏風です。豊国神社の社僧の日記により施主・筆者・制作の目的と時期がはっきりとした素性の正しい祭礼図で、ほぼ一週間にわたった臨時祭礼のうちの主立った諸行事を克明に捉え記録的な性格も持っています。
右隻には8月14日豊国廟前、神官の騎馬行列と猿楽田楽、左隻は15日方広寺大仏殿前の盛大な豊国踊の様子が描かれています。
社務所で購入した絵はがきです。
右隻
左隻
で〜んっと宝物殿の入口の左右に鎮座していますので是非是非実物を見に行ってくださいませ。
方広寺
なぜ、そこだけ白枠で囲んで誰が見てもわかるような親切設計になっているのか……
「国家安康」「君臣豊楽」
徳川家康の家と康を分断し家康及び徳川家を冒瀆するものとされ、豊臣滅亡の原因となったと言われていますが、言い掛かりなのかそこまでの含みを持たせて作られたものなのか、本当のところは謎のまま。
本能寺
有名なのにそういえば本能寺って行ったことないので。
現在の本能寺は『本能寺の変』とは少々離れたところにあります。
本能寺跡地にはなにやら現代風のコンセプトの施設があると確認し、そこはちょっと避けようかということになり、現在の本能寺に参りました。
ビルの谷間にひっそりと信長公廟。
信長公廟
信長が光秀の謀反により無念の自刃をとげたのは天正十年(1582)六月二日早朝のことだった 本能寺の変である そのころは当寺は四条西洞院にあり四町四面の広大な寺城 周囲に堀と土塁その内部に七堂伽藍や多くの子院や厩舎をそなえるという城郭構えになっていて信長が常宿するにふさわしい都で唯一の大寺院であった
この大伽藍が烏有に帰し光秀の天下もわずか十数日で終わったあと信長の三男信孝は信長らの燼骨収集の作業をすすめ 本能寺の変から一箇月後の七月三日早くも本能寺を父信長の墓所と定めた この信長の墓はこのとき信孝が建立したものである この廟所には武将の魂とされる信長所持の太刀が納められている當山識
本能寺の「のう」の字がパンフレットでは特殊な文字で変換出来ないのでサイトへ行ってみたのですが、サイトも「本能寺」になっており詳細調べました。
現在能という字をに替えて使用しているが、これは五度も火災に遭遇したので匕(火)を嫌いの字に替えたものである。
なるほどヒを嫌い、納得です。
本能寺の宝物館には本能寺の変の前夜に異変を告げるように鳴き始めたという、唐銅「三本足の蛙」がありました。
さらにひっそりと池の横に見覚えのある名前が……
加藤清正公寄進の「臥牛石」。清正が法華宗の信者であったため半島から持ち帰ったお土産なのではないかと言われているらしいですが、真相は不明のようです。
立本寺
ここには島左近のお墓があると……
墓所の入口には親切な石碑。
寛永九壬申年(1632)六月二十六日没
え?待って、左近って関ヶ原で討死したんじゃないの?
島左近は関ヶ原を敗走後、僧となり晩年を過ごしたという説もあるとのこと。
西軍武将を弔う日々だったのかなと思うと……涙
大徳寺
鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。山門は、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休居士自決の原因となった話は有名。本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。(10月第二日曜日公開)現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ね、それぞれに貴重な、建築、庭園、美術工芸品が多数残されている。 (公式サイトより)
大変広い敷地の中に大小の塔頭がありますが、ほとんどが非公開で特別拝観の時期だけ一般公開されています。
ちょうど三塔頭が特別拝観中だったのですが、国宝の本堂障壁画がある「聚光院」は休観日……残念。ということで残りの二塔頭と一般公開しているところを拝観してまいりました。
龍源院
龍源院
大徳寺の塔頭の一つで大徳寺南派の本庵である。
文亀二年(1502)に大徳寺第七十二世住職・東渓宗牧を開山として、能登(現在の石川県)の領主・畠山義元が豊後(現在の大分県)の大友義長らとともに創建した。
方丈の南、東、北に趣の異なる三つの庭園があり、北側に広がる龍吟庭は、苔の上に三尊石が建つ須弥山式枯山水の名庭で、室町時代の作と伝えられている。南庭(方丈前庭)は、白砂の大海に苔と石組で鶴亀を配した蓬莱式の庭園、また東の東滴壺は日本最小の石庭といわれ、一滴の波紋から大海原の広がりをイメージさせている。
このほか、庫裏の南側には聚楽第の礎石を配した阿吽の石庭がある。
寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔絵の碁盤、天正十一年(1583)の銘がある種子島銃などを蔵している。
「四季草木蒔絵碁盤」
徳川家康が豊臣秀吉と伏見城内で対局した時の碁盤と伝え、初代本因坊の奥書がある。金森長近が秀吉から拝領した。
榧材黒漆塗の碁盤には側面四方に梅・柳、燕子花・蝶、菊、松、竹・水仙花の金蒔絵がある。二個の碁笥には、それぞれ桐と葵の紋が付いている。
映り込んじゃってますが、日本最古の種子島銃(下)
こちらは写真撮影OKでしたのであちこち撮ってまいりました。
黄梅院(特別拝観)
瓦に毛利家の家紋が並ぶ。
黄梅院
大徳寺の塔頭の一つで、織田信長が父・信秀の追悼菩提のため、永禄五年(1562)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に銘じて建立した小庵に始まる。
大徳寺九十八世住持・春林宗俶和尚を開祖に迎え「黄梅庵」と名付けられた。
天正十四年(1586)には秀吉により本堂と唐門が、天正十七年(1589)には毛利元就の子・小早川隆景により庫裏・表門が改築され、この年に「黄梅院」と改められた。庫裏は日本の禅宗寺院において現存する最古のものといわれている。
秀吉の希望により千利休が作庭した枯山水の直中庭のほか、破頭庭、作仏庭など禅寺の風情ある美しい庭園を有している。
本堂の襖絵「竹林七賢図」は雪舟の画風を継ぐ雲谷等顔の代表的な水墨画で、重要文化財に指定されている。また、書院には千利休の茶道の師である武野紹鴎好みの茶室・昨夢軒がある。
墓所には、織田信秀、毛利元就夫妻、元就の息子三兄弟、信長の次女とその夫、蒲生氏郷、毛利一族などが祀られてる。
こちらは写真撮影出来ないので入口まで。
ここはお庭が本当に綺麗でした。
興臨院(特別拝観)
興臨院
大徳寺の塔頭の一つで、大永年中より天文二年間(1521〜1533)に、能登(現在の石川県)の戦国大名・畠山義総が仏智大通禅師を開祖として建立し、自らの法名を寺号としたという。
方丈(重要文化財)は創建後に火災に遭ったが、天文年中(1532〜1555)に再建され、畠山氏が衰退した後も、前田利家によって修復が行われた。方丈玄関の唐門(重要文化財)は室町時代の禅宗様式を見事に表しており、創建当時のものといわれる表門(重要文化財)は「興臨院の古門」として有名である。バイタラ樹の名木がある枯山水庭園や茶席「涵虚亭」も趣深い。
寺宝として椿尾長鶏模様堆朱盆(重要文化財)を所蔵している。
墓地には畠山家歴代の墓のほか、久我大納言夫妻など、当院ゆかりの人々の墓がある。
縁側に座って、ただ無心にお庭をみていると俗世を忘れて幸せになれそうです。
茶室「涵虚亭」
瑞峯院
瑞峯院
大徳寺の塔頭の一つで、天文四年(1535)に九州の戦国大名・大友義鎮(宗麟)公が自分の菩提寺として建立した。大徳寺の徹岫宗九和尚を開祖に迎え、自らの法名をとって瑞峯院と名付けた。宗麟は後にキリスト教の洗礼を受けたキリシタン大名としても知られている。
方丈、唐門、表門(いずれも重要文化財)は創建当時の建物で、方丈には後奈良天皇の宸筆による「瑞峯院」の寺額を掲げている。
庭園は、方丈南庭の独坐庭、中庭の茶庭、方丈北庭の閑眼庭の三面があり、いずれも枯山水の名園である。閑眼庭の中央には、庭を斜めに横切るように縦に四個、横に三個野石が配置され、東の端から眺めると、大きな十字架を形付くっているように見える。
境内の墓地には宗麟夫妻の墓がある。
ご住職と思われるお坊様よりお声かけいただきまして、背筋を伸ばして姿勢良くすることが健康にも繋がるというお話を伺いました。女性は姿勢良く立った時には着物と同じに左前にならないよう右手の上に左手を重ねてきちんと立つ。とても大事。思いがけずよいお話でした。ありがたやありがたや。
三玄院
残念ながら拝観謝絶。
三玄院
天正十七年(1589)浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)が春屋宗園(大宝円鑑国師)を開祖とし、創建した。
小堀遠州・古田織部・薮内剣仲・長谷川等伯などは、春屋に禅を学んだ人々である。
沢庵・千宗旦らも修行をし、春屋・三成・忠政・剣仲・織部の墓がまつられている。
織部好みの三畳台目・八窓の茶室篁庵(江戸時代建築)があり、本堂ふすま絵の八方にらみの虎は原在中の筆による。
石田三成へのお供え物がこの場所に後を絶たないとのこと、ちょうど三成フェスで聞きました。
大仙院
他の塔頭よりも大きな玄関を構え沢庵和尚のゆかりの禅寺ということでご住職が団体さんを前に面白おかしく説法をしておりました。お土産コーナーにはその沢庵和尚の「気は長く 心は丸く 腹立てず人は大きく 己は小さく」という掛け軸をラベルにした沢庵が並んでました。
大仙院
大徳寺の塔頭の一つで、大徳寺北派の本庵である。永正六年(1509)に六角近江守政頼の子・古嶽宗亘(大徳寺七十六世住職)を開祖として創建された。
本堂(方丈)は創建当時の建物で、内部の床の間と玄関は日本最古といわれ、方丈建築としてもっとも古い遺構の一つとして国宝に指定されている。書院も入母屋造で重要文化財である。
相阿弥び山水画、狩野元信の四季花鳥図、狩野之信の四季耕作図(すべて重要文化財)など、襖絵は室町時代の名作障壁画として名高い。
庭園は、室町時代の枯山水を代表する名庭といわれ、狭い庭に白砂と無数の岩石を配して、山と滝と渓流を見事に表しており、国の史跡及び特別名勝に指定されている。
歴代和尚には、千利休と懇意にしていた古渓宗陳和尚、紫衣事件で徳川幕府に一歩も退かなかった澤庵宗彭和尚がいる。
ここではお抹茶をいただきました。
秀吉の千成瓢簞にちなんだお菓子だそうです。ほんのりニッキの香りのする「千瓢」。
総見院
残念ながら非公開でしたが、織田信長の菩提を弔う為に秀吉が創建した総見院。木造の織田信長坐像(重要文化財)や織田家の墓所があります。
高桐院
こちらも非公開。
高桐院
大徳寺の塔頭の一つで、江戸時代初期の武将で茶人として有名な細川忠興(三斎)が、父・幽斎の弟・玉甫紹琮を開祖として建立した細川家の菩提寺である。
三斎は、千利休の七人の高弟(利休七哲)の一人に数えられる名手で、書院は利休の邸宅を移築したものといわれる。書院に続く茶室「松向軒」は三斎好みの二畳台目で、三畳の水屋が付き、壁や天井にも趣向が凝らされている。書院の庭は江戸初期の作庭で、また、本堂の前庭は楓の樹を巧みに配しているのが特徴である。
寺宝として、中国の南宋時代の画家利唐の山水画二幅が有名で、現存する墨絵山水画の圧巻と賞賛されている。
境内には三斎と夫人のガラシャのほか、歌舞伎の創始者とされる出雲阿国らの墓がある。三斎の墓標の石灯籠は、利休が秀吉の望みを断って三斎に贈ったものと伝えられている。
大光院
こちらも非公開。 藤堂高虎によって移されたと言われる豊臣秀長の菩提がある。
今宮神社
ここで、大徳寺を後にしてお隣の今宮神社へ向かう。
目的は参道のあぶり餅
初めていただきましたが、甘い味噌だれの絡んだ芳ばしい一口大のお餅がいくらでも入りそうな感じで美味しかったです。
上賀茂神社
本殿特別参拝と御神宝特別展を見るために上賀茂神社へ向かう。
まず神主様から国宝の本殿と権殿の前で神社のお話を伺い、それから御神宝特別展へ。
神座や式年遷宮記念写真を見学しつつ、ガラスの中に並ぶ織田信長からの古文書を拝見。天下布武の印が印象深かったです。
という頃には、かなり日も傾き京都駅にて解散となりました。
大変楽しく有意義な二日間。
まだまだ見学していないところがあります、京都。
切り絵師さんのご案内ありがとうございました。
彦根・京都の旅 その1
一日目 彦根・三成フェス
3月26日に滋賀県で開催された『三成フェス』に参加すべく彦根までいってまいりました。岐阜在住のお友達が米原までわんこと一緒に迎えに来てくれ、もう一人の友人と三人で彦根・京都の旅一泊二日のスタートです。
まずは米原駅に降り立つとそこには……
滋賀県がめちゃくちゃ石田三成推しです。
もしかしてもしかすると大河の誘致を目指しているんじゃないでしょうかね。
お迎えの車に乗り込むと2匹のわんこがお出迎え。
お邪魔します、狭くしちゃってごめんなさいね。
『三成フェス』までは時間があるので、米原市世継の春日神社にある三成お手植えの藤を見学に。
まだ葉も出てない時期ですから、なんだかとても寂しい。満開の藤棚が見たいですね。
春日神社由来
世継(旧法性寺村大字世継字北材木)に鎮座す。
祭神天児屋根命なり嘗って奈良興福寺の僧仁秀当地に来たり興福寺を建立せし時、守護神として春日の神を勧請せるるものなり。
往昔社殿誠に壮大にして美麗帰向するもの多かりしが興福寺退転するに及び次第に衰退し世継三右エ門漸く鎮守として奉斎するに過ぎざり。
嘗って石田三成当地に参拝して藤一株を手づから栽植し祈念の印とせりとて傅えて今に培養を怠らず。大に繁茂す。
正保四年協議の結果 今の地に遷座し北世継の産土神として尊崇す。
現在の社殿は其の当時の再建に係わるものなり。明治初年当時は戸長、時世一変せるを以って古記録等の必要なしとて焼却し煩雑よる逃れんとせり。されば其の由来縁起等、充分知り難し。
祭礼は蛭子神社と同じく毎年五月一日、九月十七日の両度とす。
と、案内より引用。
美味しい親子丼を昼食にいただき、いざ『三成フェス』へ!
滋賀県はとってもゆるきゃら多いような気がします。
おそらく元祖ゆるきゃら・ひこにゃんのせい……
三成のイベントに駆けつけた友情出演のよっしー、敦賀市の広報の方が名刺を配ってました。
県知事の「満月になれない三日月です」ってきっといろんなところで掴みに使ってるんだろうな、と思いつつ楽しい知事さんでちょっとうらやましい。
基調講演「今、石田三成を再評価する」静岡大学名誉教授 小和田哲男先生のお話。
屏風関係の本もたくさん書かれていらっしゃいますが今回は屏風の話はないだろうと、拝聴いたしました。
以下レジュメ
今、石田三成を再評価する
1.敵(徳川方)も石田三成を「義の人」とみていた
徳川光圀の証言
「石田治部少輔三成は、悪からざるもの也。人各その主の為めにすと云う義にて、
心を立て事を行ふもの、かたき成とて悪むべからず」(『桃源遺事』)貶められたのはなぜか
「歴史は勝者が書いた勝者の歴史」
「神君中心史観」2.三成の四つの功績
豊臣政権諸政策の牽引車として
「計数の才」を生かして兵站奉行として
都市計画のプランナーとして
諸大名と秀吉の取次役として3.三成の人となり
清廉潔白な人がら
島左近を高禄で召し抱える
三成の危機管理能力
領主として誠実な百姓との接し方
「何事によらず、百姓めいわくの儀あらば、そうじゃなしにめやすを以、にはそうせう可仕候。如此申とて、すぢなく事申上候はゝ、きうめいの上、けつく其身くせ事たるべく候間、下にてよくせんさく候て、可申上候事」(「石田三成村掟条々」)4.関ヶ原の戦いと三成
武功派との軋轢はなぜ生まれたか
三成の豊臣家世襲路線と家康の「天下はまわりもち」
「負けるとわかって突っ込んだ」はまちがい
家康の根回しに負けた三成
内容的には初心者向け石田三成という感じで大変わかりやすいお話でした。
次がパネルディスカッション「石田三成×滋賀県」
パネラー 元NHKエグゼクティブアナウンサー:松平定知さん
NHK大河ドラマ「真田丸」制作統括:屋敷陽太郎さん
歴ドル :小日向えりさん
コーディネーター 滋賀県立大学教授 中井均先生
上手に面白おかしく仕切っていた中井先生の講義聴いてみたいと思いました。
注目の「真田丸」の中で三成はどういう描き方をされるかという質問には「主人公の友人としての出演なので悪いようになならない」とのこと、官兵衛の時とは違う大河三成が見られそうです。楽しみです。
あとは抽選会などありましたが、くじ運は無い人ですのでお察しでございます。
ではお土産物など見に行こうかと、彦根の戦国丸へ。
隣の「治部少丸」にて関ヶ原合戦図屏風のレプリカを発見。
彦根博物館所蔵のものですね。これ贅沢にも裏側が……
同じく彦根城博物館が所蔵している大坂夏の陣図屏風(若江の戦い)がががが(笑)
リバーシブルレプリカ!
欲しいです、これ!マジで!!
ここにある墨絵の三成がとてもかっこいい。
すばらしい躍動感!
隅っこの小さいサインがおそらく真田丸三成役の山本耕史さんのものではないかと。
そういえば三成フェスで何度も「山田……山本耕史さん」と言い間違えられていてちょっとお気の毒でした。
夜は焼肉で盛り上がりつつ、ひこにゃんに別れを告げて夜のうちに京都へと移動。
2日目は京都の戦国武将関係寺院を回りました。
つづく〜
合戦図屏風研究の今後
何か新しい情報や史料はないだろうかと時々「合戦図屏風」でググってみたりしています。
ここが引っかかったりして、そうじゃない!私の探しているのはそれじゃない!と怒りつつあっちこっち覗き回っています。
以前も書きましたが合戦図屏風の研究自体が近年に始まったばかりですから、論文も少ないです。
と、思っていたらこんなサイトを発見しました。
2016(平成28)年度 東京大学史料編纂所 特定共同研究 共同研究員募集要項
今年度の共同研究員を募集している項目を確認すると……
『複合史料領域 ○戦国合戦図の総合的研究』
おおおおお!三年掛けて屏風を含む戦国合戦図の研究をするということですね!
7.課題の概要(400 字程度) (この項は広報等に利用・掲載することがあります)
中近世武家社会において作成されたさまざまな「合戦図」について、屏風絵あるいは 合戦地図、そのほか主として武家文書群などに含まれるいくさにかかわる画像史料を広 く収集・検討し、それぞれの描かれ方や諸本の系統、そこに描かれた内容などを研究する。それぞれの「合戦図」の典拠となる情報(軍記・家伝など)を追究し、これらがいかなる理由で作成されたのか、(近世)武家社会における「戦国合戦」に対する歴史認識、 また武家社会においてこれら「合戦図」が作成された歴史的意義について明らかにする。 またたとえば屏風絵(合戦図屏風)や合戦地図を比較検討することにより、これらが相互に関係していたのかどうかなど、個々のジャンルの「合戦図」の史料的性格を可能な かぎり明らかにする。
ああ!こういう資料を読みたいと思っていたのです!これから研究が始まるということは……今まで研究されてなかったんだ、やっぱり。資料ないわけだ。
合戦図屏風はただの戦国史の挿絵ではなく、そこにはどんな歴史的な意義があったのか。江戸時代後期に量産された意味は。すごく知りたい辺りです。
「合戦図」の研究は、合戦図屏風に関心のある文献史学の研究者、および絵画史料の 歴史研究者はもとより、中世・近世各時代の研究者、また軍記・兵学といった国文学・ 思想史研究者が垣根を越えて取り組む必要がある。
すごくツボです!そうなんです。史学だけではなく様々な方向からの研究が必要になるのが戦国合戦図だと思うのです。
11. 研究成果の公開計画 可能なかぎり史料編纂所所蔵の「合戦図」を撮影し、これらをデータベースを介して公開 する。また共同研究員各自がそれぞれの関心から「合戦図」の研究を進め、論文集のようなかたちでまとめる。
今後の研究がとても楽しみです!三年後に何らかの形で発表されるであろう論文を楽しみに生きていこうと思いました。
屏風の研究はこれからだ!
トーハクへ友松の屏風を見に行ってきました
トーハクの屏風絵のコーナーが好きなのですが、今回は海北友松ということで行かねば!
◆宮女琴棋書画図屏風(六曲一双) 海北友松筆 安土桃山〜江戸時代16〜17世紀《重要文化財》
琴棋(囲碁)書画の四芸は教養人必須の風流事とされ、とくに室町期以降、日本で好画題となった。通常男性文人が描かれるが中国の官女の姿に換え、琴は包まれたまま碁は右端に放置。着色と水墨の並置も独特だ。桃山絵画界を代表する友松の魅力あふれる傑作。
海北友松の経歴って面白いですよね。武家に生まれながらも僧となりさらには絵画の腕を認められて画家となった人です。
浅井氏家臣・海北綱親の五男として生まれる(三男説もあり)。天文4年に父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で修行。このときに狩野派を学んだらしい。師匠は狩野元信とも狩野永徳ともいわれているがはっきりしない。天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡し兄達も討ち死にしたのち、還俗し海北家の再興をめざしたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去り、晩年は画業に専念した。
東福寺で退耕庵主であった安国寺恵瓊と親しくなったと思われます。
乱世にジョブチェンジした画家の生涯がどんなであったのか、とても興味あるところであります。
『戦国の陣形』を読みました
一次資料を具体的に提示しながら理路整然と定説をひっくり返す新説は興味深かったです。合戦過渡期から徐々に陣形が成立していくようすもわかりやすく書かれていました。特に「八陣」の解釈や、「魚鱗の陣=びっしりの陣・鶴翼の陣=ばっさりの陣」というのは目から鱗。
しか〜し、私が興味を強く抱いたのはやはり陣形ではなく屏風だった!
表紙が川中島合戦図屏風(岩国歴史美術館所蔵)のものですからそっちかと思うでしょ。違うのです、関ヶ原合戦の新解釈からのぉ津軽屏風、妙に納得しました。
つまるところ関ヶ原合戦です。
新釈引用
西軍が布陣を整える前に秀秋の裏切りがあり、あっけなく勝敗が決したのである。
著者の新説によると、通説通りの布陣はなされないまま先に小早川秀秋離反の動きがあり、大谷隊陣所へと西軍が動いたところを小早川・朽木・小川・脇坂・赤座隊に挟撃され流動的に短時間で関ヶ原合戦は終了したのではないか。
この解釈から考えると、江戸時代後期に軍記物を手本として描かれた各武将が勇ましく戦場を飾る関ヶ原合戦図屏風のような場面は存在しないということになります。
果たしてこれはどういうことか。
ここで、関ヶ原合戦図屏風の中で唯一〝合戦直後〟に描かれたと伝わる津軽屏風の構成を確認してみましょう。
右隻・赤坂:東軍陣営、大垣城:西軍陣営
左隻・敗走する西軍兵
なぜか合戦ど真ん中の描写がなく、また弘前藩の史料『藤田氏旧記』によるとかつては八曲二双あったとも伝わるため、失われた一双がありそこに合戦場面があったのではないかという説もあります。(元々八曲一双、という説も当然あります)
が!
著者の説の通りの展開であっさり合戦が終わったとすると津軽屏風八曲一双の構成で関ヶ原合戦図は全て語られたことになり、幻の一双がなくともなんの不自然さもないということになります。
私たちがドラマや小説でよく目にしている関ヶ原合戦は逸話や伝説が後世に付されたものとすると〝合戦直後〟に描かれた屏風の構成が納得いくものとなる。
いやぁどうしよう。
諸説あります。史料の解釈によって様々な捉え方があるのは充分理解していますが、こう気持ちよくカチッとハマると唸らざるを得ない。
知れば知るほど歴史って面白いですよね。
「合戦図屏風」の始まり
オクで入手しました。
会期:1979年とのことでもう37年も前の古い図録です。中をみますとほとんど白黒の図版でカラーは数枚。時代を感じます。
が!この特別展が今日の〝合戦図屏風〟の研究の始まりとなるもの。古典的な源平合戦とは区別された『戦国合戦図屏風』だけを集めた初めての展覧会。大変貴重な資料です。まさか手に入ると思わなかった。毎日オクの覗くのが日課となっているたまものですね。
現在、重文となっている関ヶ原合戦図屏風(津軽本)が「大阪・個人蔵」と記されているところがすごいです。津軽ではなく大阪、しかも個人宅にあったっていうのはどういうことなんだろう。犬山城の成瀬家では蔵の中から長篠合戦図屏風が出てきましたが、蔵を持っているような旧家には戦禍をくぐり抜けた古い時代の屏風がまだまだ眠っているかもしれません。