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金雲のすき間

合戦図屏風より愛を込めて

関ヶ原合戦屏風資料追記

一部訂正と追記

いやぁ勘違いしていた。 彦根城博物館所蔵の井伊家屏風と木俣家屏風って同じ物かと思っていたら 構図が同じ別物だった。 木俣家が所蔵していたものを井伊家が譲り受けた、と勝手に解釈していました。 違った……orz っていうか迂闊! 手持ちの〝戦国合戦絵屏風集成 第三巻 関ヶ原合戦図〟に 彦根家屏風も木俣家屏風も出てた!!! この構図の屏風は現在6点所在が確認されているらしい。

 

指定文化財『紙本著色関ヶ原合戦図(木俣家本)』に関する彦根市の資料によると……

 慶長5年(1600)9月15日の「天下分け目の戦い」といわれる関ケ原合戦の様子を描いた図。この合戦は、徳川家康率いる東軍と石田三成らの西軍が美濃の関ケ原で交戦し、東軍が勝利したが、その中で勝敗がほぼ決した午後の戦況を描いている。 本作品は、彦根藩筆頭家老木俣家に伝来し、本紙が縦159.lcm、横364.6cm、紙本著色屏風で、向かって左下に「大館□雪」(朱文方EF)、「宗信」(朱文鼎印)の2種の印が捺されている。大館宗信は未詳であるが、その画風から、幕末をあまり遡らない時期に狩野派系統の絵師によって描かれたと考えられる。 構図は向かって右方に東軍、同左方に西隼、上部に関ケ原の北にある伊吹山山系が描かれ、南から俯跛した配置となっている。第1扇に桃配山の家康本陣、第3扇に「大一大万大吉」帳幕が張られた笹尾山の石田本陣を配し、第2扇には来配を振りかざす井伊直政を中心とした井伊隊など、東西各部隊の交戦が画面全然に描かれている。 関ケ原合戦を題材とした絵画は、合戦直後から江戸時代を通じて多く描かれているが、本構図の特徴は、江戸時代に流布していた軍記物に叙述される逸話が多く盛り込まれ、旗印により諸隊が判別できる点である。当時、一般に認識されていた関ケ原合戦を図像化した構図といえる。 本作品と同様の構図を持つ屏風は、現在、以下の6点が確認されている。 ① 彦根城博物館蔵(井伊家本)6曲1隻
関ケ原町歴史民俗資料館蔵 6曲1隻 翫月亭ケ幾山筆 嘉永7年(1854)
行田市郷土博物館蔵 6曲1双(左隻は9月14日杭瀬川合戦)
垂井町個人蔵 6曲1双(行田市本と同構図)
関ケ原ウオーランド(法蔵寺)蔵 6曲1双( 同上 )
⑥ 長蔵寺蔵6曲l双( 同上 )
いずれも、同一の祖本をもとに模写・改変を経た作品である。祖本にあたる作品の現存は確認できないものの、井伊家本に狩野梅春の描き落款があり、また、関ケ原町本には狩野梅春筆の画を写した旨の落款が確認されることから、幕府の御用絵師である狩野梅春作の作品を祖本とする可能性が高いと考えられる。 諸本の中で、井伊隊の旗指物に氏名が記されているのは、木俣家本と井伊家本のみであり、井伊家家臣の武功を表現する意図で描かれたものとみられる。さらに、木俣家本にのみ、井伊隊の先鋒として戦う井伊家家臣が十数名加筆されている。合戦後の論功行賞では、武功を挙げたが取り立てられなかったために丼伊直政に直訴する者も出て混乱したが、これを収拾したのが、木俣家の祖守勝である。守勝は、その功績により直政から後に木俣家の家宝となる名物「村雨の壺」を拝領した。加筆されたのは、この一件に関与した人物達である。本作品が、木俣家に伝来したことを考慮すると、家にとって極めて重要な一件を示唆する場面を加えて描くよう、木俣家が制作者に命じたものと考えられる。 本作品は、江戸時代の人々に認識されていた関ケ原合戦の様子を一隻に集約したものとして高く評価できる。また、同じ構図の作品の中では最も画技が高く、さらに江戸時代の歴史認識や先祖顕彰意識を読み解く歴史資料として、彦根にとって貴重な作品である。
彦根市文化財年報 平成20年』より

調べてるとボコボコいろいろ出てきて他の合戦の屏風も調べたいのに 関ヶ原合戦屏風だけでもう既にわけがわからなくなってきた(;・∀・)

もしかして、この④の垂井町個人蔵の屏風が現在関ヶ原町歴史民俗資料館の 企画展 「関ヶ原合戦にみる黒田と竹中~二兵衛の息子 黒田長政と竹中重門~」に並んでいる 『野上・早野家蔵』なのかな?

関ヶ原町で先日見てきた大正時代の関ヶ原屏風(藤井介石)がとても気になる。 大垣市の物を展示してあったのか、大垣市の物とはまた別な藤井屏風なのか……(´ε`;)ウーン…

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