金雲のすき間

合戦図屏風より愛を込めて

関ヶ原合戦図屏風【3】各屏風まとめ

まずは屏風の構造と数え方から f:id:ujikintoki_byoubu:20150910160249j:plain
これは『関ヶ原町歴史民俗資料館』にて購入したミニ屏風です。 ギザギザギザと6枚の板から出来上がっています。これで〝六曲〟
これ一点なら〝六曲一隻〟
二枚並んで一対となっているものは〝六曲一双〟となり、左を左隻、右を右隻と呼びます。
さらに各板一枚は右から〝第一扇〟〝第二扇〟……と数えます。 これが屏風の基本です。
関ヶ原合戦図屏風のご参考までに。

以下、さわりだけまとめてみました。 今後詳しく調べていきたいと思っています。
サイトに屏風の画像をどこまで使っていいものか……とても悩ましいところです。


大阪歴史博物館所蔵

八曲一双 紙本金地著色 194.1×590.0cm 江戸初期

作者は土佐光吉周辺の画家、あるいは狩野光信に比定

津軽家に伝来したことから津軽屏風とも呼ばれる大作。9月14日赤坂・大垣における両軍の対陣と翌15日本戦後追撃戦の様子が描かれている。合戦からそれほど時期をおくことなく制作され、その大きさからも関ヶ原合戦屏風の代表作と言われている。この作品の中で特定できる人物は家康だけであり、家康の養女満天姫が弘前城津軽信枚に嫁した際に携えてきたという『藤田家旧記』の信憑性は高いと考えられている。この『藤田家旧記』には家康の手元に二双の関ヶ原合戦図屏風があったとも記されているので、津軽屏風を補完する一双分がかつて存在し、どのような図案であったかという議論もなされているが謎を残したままである。

 

彦根城博物館所蔵

六曲一隻 紙本著色 156.7×361.2cm 江戸後期

落款「狩野梅春貞信筆」 朱文瓢印「法眼」

落款が手書きであるため、本図は梅春が描いたものではなくその写しであることがわかる。大坂夏の陣図と一双として表装されているが縁木は白木のままで簡素な仕立てである。 「井伊家の赤揃え」としてその勇猛ぶりが世にきこえた井伊隊健闘の様が描かれている。

木俣家旧蔵(現彦根城博物館所蔵)

六曲一隻 紙本著色 159.1×364.6cm 江戸後期

朱文方印「大館常雪」 朱文壺印「宗信」

彦根藩筆頭家老木俣家に伝来した屏風。作者の大館常雪宗信は未詳であるが、幕末をあまりさかのぼらない時期に狩野派系統の絵師によて描かれたと考えられている。井伊家屏風と基本的に同画面であるが、井伊家のものよりは画技に優れ、かつきちんとした完成本である点、貴重である。

関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵

六曲一隻 紙本著色 161.1×348.4cm 1854年

落款「狩野梅春筆 嘉永七甲寅年初冬 応需 翫月亭峩山書之」朱文方印「峩山」

同資料館の前身、関ヶ原町郷土館時代に購入したという。落款は貼紙上に記入されている。翫月亭峩山については未詳。 模写した絵師の技量は決して高いとは言えないが細部まで忠実に写そうとしている。

 

行田市郷土博物館所蔵

六曲一双 紙本著色 各126.0×324.0cm 江戸後期

右隻は9月14日の杭瀬川の合戦を描き、左隻が彦根博本らと同系統の構図を持つ。この屏風は、明治30年に当時岐阜知事であった湯本義憲が送られたといい伝来を持つ。その画法から四条派を学んだ人の作品という。同様の構図の一双の作品は数件確認されているが、いずれも一隻の作品とは特徴的な差違が確認出来る。それは1扇の徳川家康の描写で、一隻の作品では家康は松の影に隠された位置にいるという想定で描かれているが、本図では「伍」の字の指物を立てた使番が戦況報告をする先に家康に見立てた鎧櫃が描かれている。これは、その側にいる戸田氏鉄の姿を引き立たせるための改変で、藩祖戸田氏鉄の存在を際立たせるために大垣藩の周辺で制作されたと考えられている。同構図を持つ一双の作品がいずれも大垣周辺にあったことが確認されていることから、大垣周辺で作成された図柄が写されて周辺に流布したものと推測されている。

垂井町個人蔵(右隻・左隻分蔵)

六曲一双 紙本著色 右134.8×360.6cm 左134.5×357.0cm 江戸後期

行田市郷土博物館所蔵の屏風と同じ構図

長源寺所蔵

六曲一双 紙本著色 未計測 江戸後期

行田市郷土博物館所蔵の屏風と同じ構図

関ヶ原ウォーランド所蔵

六曲一双 紙本著色 未計測 江戸後期

行田市郷土博物館所蔵の屏風と同じ構図

 

敦賀市立博物館所蔵「関ヶ原合戦図屏風」

六曲一双 絹本著色 97.5×229.0cm 1854年

落款「菊池容斎 安政元年」

金雲の中に人物を細部まで丁寧に比較的大きくあらわし、甲冑や陣幕指物を鮮やかな絵の具で描く大変華やかな合戦図屏風。関ヶ原合戦の様子を右隻には石田軍・島津軍・といった西軍を中心に、左隻には藤堂軍・井伊軍といった東軍を中心に描く。右隻三扇には敦賀城主大谷吉継の籠に乗って参戦した姿が描かれている。一方、徳川家康の陣は描かれていない。

 

岐阜市歴史博物館「関ヶ原合戦図屏風」

六曲一隻 紙本著色 155.7×357.8cm 江戸後期

他に類を見ない独特な構図の屏風で、絵師の自由な発想で画面が構成されている。絵は緻密で躍動感がある。福井県立歴史博物館所蔵の「姉川合戦図屏風」と同一工房作と考えられている。「姉川合戦図屏風」は天保八年三月林義親の手になる作品であることからこの作品もそれに近い時期のものと考えられている。彦根本系とは反対方向からの俯瞰で描かれている。

 

福岡市博物館関ヶ原合戦図屏風」

二曲一双 紙本著色 各70.2×219.8cm 江戸後期

福岡黒田家に伝わったこの屏風は、関ヶ原合戦において、裏で吉川広家小早川秀秋への工作にあたり、戦場でも大いに活躍した長政の武功を顕彰する目的で、いずれかの原本から模写されたものと考えられている。

徳川美術館関ヶ原合戦図屏風」

二曲二双 紙本著色 各72.4×110.8cm 江戸後期

福岡市博物館所蔵の屏風と同じ構図。東京国立博物館岐阜市歴史博物館に同じ構図の「関ヶ原合戦絵巻」が存在する。

 

大阪城天守閣関ヶ原合戦図屏風」

六曲一双

右隻左隻ともに井伊直政隊の扱いが大きく制作にあたっての徳川譜代の筆頭である彦根藩井伊家の関与を想像させる。なお、周辺に配される部隊に付いては時間的にも空間的にも実態にあわないものが多く、左隻には既に壊滅したはずの石田三成本陣が描かれている。制作者の興味は中心部の主題に偏り周辺部はそれを引き立てる程度の関心しか払われていないようである。

渡辺美術館「関ヶ原合戦図屏風」

六曲一双

大阪城天守閣所蔵の屏風と同じ構図。


なお、参考文献はこちら

ujikintoki-byoubu.hatenablog.com