彦根・関ヶ原の旅【2日目】
私のいびきで眠れなかったというMさんにもうしわけないと思いつつ 6時起きで朝一佐和山へ向かいました。 お天気が心配でしたが、傘を差す必要がない程度小雨。 靄がかかって、おそらく関ヶ原合戦の時もこんな天気だったのではないかと思うと感慨深いです。
と言うことで、佐和山に到着。
佐和山城祉への入口となる龍澤寺には
安国寺恵瓊さんの肖像が描かれた板絵があるそうなのですが、非公開で残念。
拝観時間前ですが入れるところまで入ってみようと……
石田三成公が鎮座されておりました。
その後のスケジュールも詰まっていたし、
体力的にも時間的にもいっぱいっぱいになりそうでしたので登山は見送り。
次に来るときは登ってみたいと思います。
関ヶ原に向かう前に昨日断念した、吉継さんの首塚へ寄りたい!
と、Mapとカーナビをにらめっこで検索。
私のスマホのMapは相変わらず〝近江屋旅館〟を示すのでわけがわかりません(笑)
が!なんとか辿り着きました。
畑のど真ん中。
おそらく私有地なのですが、その一角だけ整備されていました。
挿絵が、関ヶ原屏風絵だな〜と思いながら眺めておりました。
実際ここに吉継さんの首があるかどうかは不明だそうですが
距離的にきっとここに、と思うと浪漫です。
靄の中、関ヶ原へと早馬を進めました(私は運転してない
とりあえず開店前の『関ヶ原町歴史民俗資料館』駐車場に車を停め
一番近い徳川家康最後陣跡へ向かいます。
確か無双の古戦場ラリーでスマホに家康映るんだよね?
とあいぽん持ちの友と泥使いの私でアプリを弄っていろいろやってみたのですが……よくわからない(ぉぃ
ということでその辺はあっさり諦めました。
あとは資料館が開くまで近くを回ろうと、東首塚へ向かいます。
合戦後東西二箇所に戦死者を埋葬したとされたと言われています。
近くには、松平忠吉と井伊直政の陣があります。
東軍の先鋒は福島正則と決まっていたのに、
勇み足なのか功を急いたのかいきなり宇喜多隊へ発砲したのがこの二隊。
そこから関ヶ原合戦開戦となったわけです。
丁度よい時間になったので歴史民俗資料館へ戻ります。
関ヶ原合戦屏風絵的には三番手くらいに位置すると思われる関ヶ原町屏風があります。
関ヶ原合戦前日からの動きをパネルを見ながら解説が聞ける大変わかりやすい親切設計。
そして、期待していた屏風の他に
藤井介石筆による大正時代の比較的新しい関ヶ原合戦屏風絵六曲一双、
右隻杭瀬川合戦・左隻関ヶ原合戦という六曲一双の展示があり
(ノ゚ο゚)ノ オオオオォォォォォォ-っと眺めまくってきたのですが
メモを取ってこなかった。
写真撮れないんだからメモしてくればよかった。
脳が老化してるので記憶に留めるのには限界がある。
お家へ帰ってからググって調べようと思ったらですね……あんまり出てないんですよ、がっかり。
民俗資料館でお土産やらグッズを購入。
ミニ関ヶ原屏風を買ったんですよ!幸せです(´∀`*)ウフフ
近くのヤギ工房でオススメの〝ヤギアイス〟を食べようと思ったのですが、
ちと寒いので代わりに〝ヤギプリン〟
殿、付いてるじゃないですか!
ここで切り絵師さんが関ヶ原へ向かっていることを受信。
こちらも笹尾山へと移動開始。
駐車場に停めると目の前が笹尾山。
殿ぉぉぉぉぉぉ!
などとわちゃわちゃしているところで切り絵師さんと合流。
道案内は安心!!!
笹尾山の上、石田三成陣まで登るとツアー団体さんがいらして近づけない。
人を避けて旗だけ写す。
笹尾山を下りて交流館で無双のポスカをいただく。
2日は左近と吉継。
明日も来られれば、殿だったのだが仕方ない……(ノД`)
お外のパネルを記念に。
さて心強い地元の友の先導で高虎陣へGO
我々だけではとても辿り着けなかったであろう住宅地の路地をくねくね進んで
ここ駐車場なの?というところに車を停めて中学校裏の仮住まいらしい陣跡。
ここから平塚為広・大谷吉継陣という位置関係を地図で確認すると
すごく実感できるわけでして……
現地に行くってとても大切だと思うことしきり。
切り絵師さんの手に乗る高虎
吉継陣へと向かいます。
路駐して軽くハイキング程度の登山。
軽く、軽くなのだよ。
最近、ほとんどデスクワークで運動不足でな……
先鋒二人から遅れ気味に二人。
雨は上がっていましたが、足元がぬかるんで滑る。
慎重に登るとありました。
登っている途中は、こんなに山の中でどうやって戦ったんだ?
と思っていたのですが、陣に辿り着いて理解。
晴れていれば小早川秀秋の陣が左前方辺りまで見えるそうです。
ほんとに現地行く事って大切とさらに実感。
三成の盟友・大谷吉継は、病身を押して参戦。三成への〝義〟を貫いた。
予想していた小早川隊の寝返りにも動ぜず応戦するが、配下の脇坂隊らの攻撃により混乱。
湯浅五助の介錯で自害。
ここでも手乗り吉継
少し引き返したところに、吉継さんと五助さんのお墓がならんでおります。
大谷吉継の首を埋め隠した湯浅五助。
それを藤堂仁右衛門に発見され、自らの首と引き替えに他言を阻止し、
供養を託した。
敵ながら感心した藤堂が合戦後に墓を建てたと言われている。
この〝藤堂〟ゲームでは高虎となっていますが
無双ではよくあるキャラの置き換えなので
史実(あくまで伝承の域)は仁右衛門さんですね。
合掌
石田町の三成祭へ間に合うように、そろそろ関ヶ原を出発。
途中、三成の三献茶の舞台となる観音寺に寄ります。
丁度、寺宝展開催中で
長政様の書状やら石田正継関係の品や仏像など拝観することができました。
お寺の門の外には三成ゆかりの井戸。
佐吉君はこの井戸で汲んだお茶を秀吉様にお出ししたのですね。
さてこの後は午後のメインイベント石田三成祭。
お祭りそのものよりも講演会を楽しみに一路石田神社へ。
この横の広場でお祭りイベントやってました。
焼きそば食べて、周辺の三成ゆかりの史跡を見て回りました。
辞世の句
【筑摩江や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり】
解釈:筑摩江(琵琶湖東北端)にいる私。芦の間に燃えているかがり火(焚き火)がやがて消えていくように、我が命も直に燃え尽きてしまうのだな。
石田三成生誕の地にある石田会館にて講演会。
『秀吉政権下での石田三成と大谷吉継』
講師は吉継研究第一人者の外岡慎一郎先生。
吉継の資料は少なく三成との「盟友説」は関ヶ原合戦共同戦線の事由説明の域を出ないが
年少期からの友誼を想像させる情報もある。
なにより、吉継はいろいろな場面で三成を抑える役目をしていた。という史実!
刎頸の交わり、とはまさに三成と吉継と思いたいです。
講演後は屋敷跡ですとか、三成の産湯に使った井戸などを散歩がてらぶらぶらと見学。
ここで、地元の切り絵師さんと別れ、新幹線に乗るために米原へと向かいました。
日程的にかなりいっぱいいっぱいで素っ飛ばしてしまった場所も多く、
一回行ってちょっと慣れたので今度はゆっくり関ヶ原を回ったりしたいなぁと思っています。
休館中だった『彦根城博物館』にも行ってみたい。
ゲームやって史実関係の本を読んで、ネットで細々調べて……
それでもやはり現場へ行って実際の場所を目にすると
まさに〝百聞は一見にしかず〟
大谷吉継はこの陣から動きの怪しい小早川隊を見ていたんだな、
三成陣の真下を左近隊ががっちり固めていたんだな、
って事を再確認出来て感涙。
400年前にここで確かに関ヶ原合戦が起こったのだという……
また是非是非行ってみたい関ヶ原ツアーでした!!!
一緒に回ってくださった鹿友達よ、ありがとう!!!