金雲のすき間

合戦図屏風より愛を込めて

小田原城・石垣山一夜城の旅

時はGW、晴天の下、友と二人小田原へと出陣いたしました。

小田原城が平成の大改修によろリニューアルしたとのこと、展示品も含めここは是非是非拝観しておきたいとこだまに飛び乗り小田原へ。

小田原城小田原駅から徒歩10分、都内への通勤も可という好物件。総構えは二の丸までしか残っていませんが、立派なお堀に囲まれた改修済みの真っ白天守閣は青空に映えて見事でありました。

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GWだけあって天守閣は入場制限もあり入口に大行列が出来ていました。展示品もなかなかよかったですが、観光の皆様の目的は天守からの小田原市街を一望する絶景。しかしそれも流れ作業のように立ち止まることを許されない混雑振りでなかなかに過酷。

本丸の門も再建されたもので古いものではありませんが、いくつかありました。


常磐木門』

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本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく眷顧に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことがわかる。
 元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡り櫓から構成される枡形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。
 現在の常磐木門は、市制30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に再建したもので、門の傍らには往時からの松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常磐木門と名付けられたといわれている。(説明書きより)

 

『銅門(あかがねもん)』

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 銅門は、櫓門・内仕切門・石垣・土塁からなる枡形形式の門です。この門は江戸時代初期の寛永10年(1632)ごろに稲葉氏によって最初に造られたと考えられますが、その後震災などを受け、何度か建替・修復されてきました。宝永2年(1705)ごろに造られた銅門は明治維新の廃城により解体されましたが、絵図面や古写真、発掘調査などの資料を基に、文化庁の指導を得て平成9年(1997)に復原されました。
 この門は、大手門から住吉橋を渡り二の丸御屋形(御殿)や本丸へと通じる、大手筋に設けられ、小田原城の中でも最も重要な門の一つでした。扉の飾り金具に銅が用いられていたことからこの名の由来があると考えられます。(説明書きより)

銅門は内部を公開中で、石落としなどを見学できました。

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檜の匂いが爽やかな内部。

『馬出門』

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馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文12年(1672)に枡形形式に改修され、江戸時代末期まで存続しました。
 石垣と土塀で四角く囲んだ枡形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木門から成ります。(説明書きより)

 小田原城は復原された建造物が多く綺麗に整備されていましたが、本丸裏側辺りにある発掘調査中の『御用米曲輪』(江戸時代に幕府の米蔵があった場所)は、戦国時代の建物や池・庭園などの跡等がみつかりまだまだこれから発見されるものも多くありそうです。

 

巨大な総構えの小田原城は街中あちらこちらに遺構が残っています。地図を片手に見て回るのも面白いかと思いますが、たとえば……

『幸田口門跡』
郵便局等の建物に囲まれた裏側に土塁が残っていたりします。

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この土塁は、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。当時は、本丸・二の丸を包むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸としていました。この土塁は、三の丸の土塁が残されている数少ない場所の一つです。
 この場所の西側に幸田門という三の丸の入口がありました。その跡の一部が発掘調査で見つかっています。
 戦国時代に上杉謙信武田信玄小田原城を攻めた時にはこの幸田門から小田原城を攻めたと考えられています。北条氏康・氏政父子は籠城策を用いてこれを退け、小田原を守り抜きました。(説明書きより)

 

 三の丸がところどころに遺構を残す程度の存在となってしまっているので、大手門は地名に名を残すのみとなっているようですが一つだけ史跡がありました。

『大手門跡』

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 この場所は、江戸時代の小田原城の大手門があったところです。
 この門を入ると西側一帯は三の丸となり、道の両側に小田原半の家老級の屋敷が並んでおりました。
 それまで箱根口付近にあった大手門を、稲葉氏が城主であった寛永十年(1633)に、三代将軍徳川家光が京に上るのに備えて、江戸に向く現在地に移し、大手門前までの道は将軍家が小田原城に入るための、御成道として整備され、東の入口であった江戸口見附も、国道一号沿いの現在の位置に移されました。
 大手門の造りを元禄時代ごろの絵図で見ると、三の丸の堀に架かる土橋を渡ると、外からの攻撃や敵の侵入を防ぐための、馬出と呼ばれる空間があり、さらに冠木門と呼ばれる門から、枡形と呼ばれる四角い空間に入ります。この枡形は、櫓門や石垣、堀で囲われており、厳重で立派な門であったことがわかります。(説明書きより)

 

駅近くの飲み屋街の片隅に、北条氏政・氏照の墓所がありました。 

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鈴がたくさん下がっていて、鈴をたくさん掛ければ供養になると書かれているのですが、なぜ鈴なのかが今一つわからない……

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 北条氏政は、北条氏四代の領主。氏照は、氏政の弟で、八王子城など五つの支城の城主でした。
 天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、五代領主氏直は高野山に追放され、父氏政とその弟氏照は城下の田村安斎邸(現南町)で自刃しました。
 両人の遺体は、当時この地にあった北条氏の氏寺、伝心庵に埋葬されました。(現在、永久寺所有)
 その後、放置されていた墓所は、稲葉氏が城主の時(1633〜1685)北条氏追福のため整備されました。大正十二年(1923)の関東大震災では墓所が埋没する被害をうけましたが、翌年地元の有志により復元されました。  小田原市教育委員会

(説明書きより)

 説明書きを読んでも鈴の謂われが不明であります。

 

さて、もう一つの目的であります『石垣山一夜城』ここへは通常公共交通機関がないとのことでしたが、行楽シーズン限定の「小田原宿観光回遊バス」を利用すると小田原駅前から20分で行くことが出来ます。
ということで到着しました。

『一夜城歴史公園』

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豊臣秀吉が築城に当たり、山頂の林の中に堀や櫓の骨組みを造り、白紙を貼って白壁のように見せかけ、完成すると周囲の樹木を伐採し、それをみた小田原城将兵が一夜のうちに城が素津現下と思ったという伝承から石垣山一夜城と呼ばれています。
 秀吉はこの城に淀殿や側近や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。
 この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、野面積といい、長期戦に備えた本格的な城造りであったと言えます。(パンフレットより)

 豊臣秀吉は後世にも名の残るたくさんの武将により小田原城を包囲しました。その際に小田原全体を見下ろせる笠懸山の山頂に城を築き、そこを本陣としました。
北条氏の兵力5万4千に対し、豊臣勢はそれを遙かに上回る22万。
小田原城包囲は天正十八年(1560)4月3日から始まり、およそ三ヶ月後7月に氏直は開城降伏し、北条氏は滅亡しました。

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小田原が眼下に一望出来る絶好のポジション。ここに秀吉は本陣を置いたいうことを実感出来る眺めであります。

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 整備された芝生の公園を囲むのは崩れた石垣という、兵どもが夢の跡。

f:id:ujikintoki_byoubu:20170508204441j:plain 道標の上にあるのが瓢簞で、とても太閤殿下。

 

途中、一夜城のオススメはここだよ、と地元の方に教えていただいたのが『井戸曲輪(淀殿の化粧井戸』

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淀殿も使ったと言われる化粧井戸。写真ではわかりにくいのですが、かなり深い。

 井戸曲輪は、石垣山一夜城二の丸(厩曲輪)北東側にあり、もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られている場所です。井戸は二の丸から215mも下がったところにあり、今でも湧き出る水を見ることができます。この井戸は「淀君化粧井戸」または「さざゑの井戸」とも呼ばれています。
 石垣山一夜城は、高い石垣で築かれた東国で最初の近世城郭です。石垣は、あまり加工されていない石を用いた野面積みで、築城に際して西国から穴太衆と呼ばれる石工集団が派遣されたことが文書に記されています。
 井戸曲輪の石垣は、石垣山一夜城の中でも特に当時の姿をよく留めている部分で、その石垣の特徴を知る上で貴重な遺構といえましょう。(説明書きより)

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古い石垣しか残っていない一夜城には小田原城とは違う良さがありました。

400年以上の時を経ても残るもの。

浪漫だと思います。

 

都内から新幹線で30分。

思いの外近い場所、小田原には浪漫がありました。

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