金雲のすき間

合戦図屏風より愛を込めて

岐阜・大垣・長浜・竹生島、屏風の旅 その2

2日目

あいにくのお天気でしたが、強くならないことを祈りつつまずは大垣城へと向かいました。

 

大垣城

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大阪城天守閣所蔵の通称津軽屏風と呼ばれる「関ヶ原合戦図屏風」に描かれている、石田三成が西軍の本拠とした大垣城です。

大垣城の内部が資料館となっていますが、そこに「関ヶ原合戦図屏風」を立体化したジオラマがあります。これが見たかった!

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赤坂岡山の東軍陣です。

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屏風だとこの辺り。

 

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西軍本陣の大垣城

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角度が違いますが、屏風ならここです。本丸と二の丸の間の橋にいるぶち犬まで再現されています。

 

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杭瀬川の戦いのあたりですね。

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ジオラマ楽しいです!

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大垣城の由来

 大垣城は、天文4年(1535)宮川安定が築城した(明応9年(1500)竹腰尚綱の築城とも伝えられる)といい、水門川の流れを外堀に利用して造られた規模の小さな城であった。その後城郭の増築が行われ、天守は慶長元年伊藤祐盛によって造営され、元和6年に松平忠良により改築されたという。この天守は、四層四階建て総塗りごめ様式で、たいへん優美な城として名高く、歴史の上からも重要な役目を果たしました。昭和11年には国公に指定され、郷土博物館として親しまれてきたが、昭和20年7月29日繊細で惜しくも焼失した。その後、大垣城再建の気運が高まり、昭和34年、現在の天守が完成した。さらに平成23年には、天守と乾隅櫓を繊細前の外観に近づける改修を行った。

(パンフレットより)

関ヶ原合戦図屏風の大垣城は三層ですが、四層となったのは松平忠良により改築された後とのこと。屏風は古くに描かれたものということがよくわかるわけです。 

 

このあと、関ヶ原を進軍通過し長浜へと向かいます。

 

長浜

長浜と言えば駅前の秀吉様と佐吉君。三献茶の像。

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ここ、毎回思うのですが、背景もうちょっとなんとかならないのですかね。せっかくの撮影ポイントなのに残念です。工事が終わったらもうちょっとなんとかなるのかしら。

 

さて、長浜では黒壁スクエアで近江牛を堪能。二日続けておいしい牛肉。

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長浜の豊国神社。

祀られているのは、豊臣秀吉加藤清正と恵比寿様。あくまで恵比寿様です。

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「虎石」

秀吉が築城した長浜城の庭園に置かれた「虎石(虎が伏しているように見えることから)」を秀吉は大変気に入っていたのですが、長浜城が廃城となった後、庭石は大通寺へ移されました。しかし庭石は夜毎に「いのう(帰ろう)、いのう」と泣いて訴えたことから元々長浜城のあった敷地に戻し、その後、現在の地である秀吉が祀られた豊国神社へと移されたということです。

他の説では、虎之助(加藤清正)が寄進した庭石なので「虎石」と呼ばれたというものもあるようです。

 

琵琶湖湖畔にある長浜城は、昭和58年に再興され内部は長浜城歴史博物館となっています。

 

竹生島

今回の旅行のメインイベント琵琶湖の竹生島へと向かいます。

竹生島宝厳寺の唐門は豊臣時代の大坂城北側にあった極楽橋を移築したものと言われています。極楽橋は金を用いた鮮やかな色彩と「鳥や樹木など種々の彫刻」で装飾されていたといわれています。その華やかさは「豊臣期大坂図屏風」に描かれています。

実物が見られるならば!と片道30分の船旅で竹生島へ向かいました。

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竹生島竹生島神社とその奥に宝厳寺、港にお土産屋さんが数軒あるだけの小さな島です。

港から長い階段を上ると宝厳寺があります。

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さらに登ったところに、真田丸での胃痛キャラがすっかり板に付いた片桐且元さんお手植えのモチノキがありました。

 

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さて、そこを下ったところにあるはずの『国宝・唐門』を……

 

はっ!!!

 

 

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改修中!!!

 

事前に調べておかなかった私も悪いのですが、なんということでしょう……ここまで来てこれは脱力です。

辛うじて、扉の部分だけは直接見ることが出来ました。おそらく完成当時は極彩色だったのだろうと思われる赤や緑の彩色が微かに残っているみごとなレリーフ

 

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あまりの動揺にピンボケであります。

wikiからお借りしてきた在りし日の『国宝・宝厳寺唐門』

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かなり傷んでいるのが素人目にもわかるので改修いたしかたない……2年後には移築当時の豪奢な門が再現されるものと思われます。

国宝・宝厳寺唐門

慶長7・8年(1602・3)豊臣秀吉の子秀頼によって、京都豊国廟(秀吉の亡きがらを葬った廟所)の建造物を竹生島に移築するかたちで、当時荒廃していた竹生島の伽藍整備が行われました。この時、豊国廟の極楽門が移築され現在の宝厳寺唐門になったといいます。豪華絢爛と評される桃山様式の建造物の特徴がよく表れており、破風板内部の正面中央には大型の蟇股が置かれ、その内部は牡丹の彫刻で埋められています。蟇股の外部や脇羽目なども多彩な彫刻で埋め尽くされ、極彩色で飾られています。現在は、長年の風雨によりその鮮やかな色もずいぶん褪せていますが、建立当初は、黒漆塗りの躯体と、赤・黄・緑などの極彩色とが鮮やかなコントラストで映えていたことでしょう。

さて、この唐門は京都から移築されてきたものですが、実は、その前に一度移築を経験しています。このことが最近のある大発見によってクローズアップされてきました。2006年、オーストリアのエッゲンベルグ城に飾られていた壁画が、豊臣時代の大坂を描いた屏風絵であったということが判明したのです。そこには大坂城の本丸と二の丸の間にかかる屋根や望楼を持つ豪華な橋・極楽橋が描かれていたのです。この橋は、慶長元年(1596)に建造され、慶長5年(1600)に京都の豊国廟へ移築され極楽門として設置されたことが分かっています。さらに、慶長7年(1602)に竹生島に移築され現在に残っているというわけです。江戸時代の初期に徳川家によって破却された豊臣時代の大坂城の一部が唯一、竹生島に現存しているのです。秀吉が、初めて城持ちの大名となった地である長浜に、栄華を極めた秀吉の象徴ともいえる大坂城の遺構が唯一残っていることは、深い因縁を感じさせます。

(現地・立て看板より)

 

 

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こちらがエッゲンベルグ城にある『豊臣期大坂城図』に描かれた極楽橋。大坂城の北側という裏側の位置であったのは、秀吉が構想した京街道に面する橋であり、後陽成天皇大坂城行幸を考えての造営だったのではないかと言われています。

 

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NHKがCGで再現した、大坂城極楽橋。(立て看、なぜ正面から撮らなかったのか……)なるほど、天皇を迎える為の橋と納得出来る造りです。

 

なにはともあれ、平成30年に完成とのこと、また2年後に行かなくていけませんね。

 

ということで、相変わらず短期間強行軍の1泊2日戦国期の屏風を堪能する旅となりました。

まだまだ見たい屏風がたくさんあります!