金雲のすき間

合戦図屏風より愛を込めて

岐阜・大垣・長浜・竹生島、屏風の旅 その1

1日目

 

岐阜市歴史博物館所蔵の『関ヶ原合戦図屏風』の実物を見たことがありません。他の関ヶ原合戦図屏風は実物をみているので、とても見たいです岐阜の屏風。

と、いうことでこの連休は岐阜から滋賀への一泊旅行をしてきました。今回も地元大垣民であるお友達のご案内です。いつもありがとうございます!

 

岐阜公園の近くを流れているのは鵜飼いで有名な長良川。観覧船の造船所がありました。

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黒板塀が渋いです。

 

岐阜市歴史博物館

ポケモントレーナーで賑わう公園を抜けて

向かいますのは『岐阜市歴史博物館』目的はこれ。

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今回の目当ても当然の様に「合戦図屏風」であります。

しかし、事前に「展示品リスト」を確認したところ、岐阜市歴史博物館所蔵の『関ヶ原合戦図屏風』の名前がない……どこかでなにか見間違えたのか、でもでももしかしたら常設展にあるかもしれないし、他の合戦図屏風も見たいのでなにも問題はない!いざ出陣!

 

徳川美術館所蔵の品々がメインの展示となるので、長篠合戦図屏風と長久手合戦図屏風がお出迎えです。ありがたや。

長篠合戦図屏風と長久手合戦図屏風は一双として制作されているものが多く、そのほとんどが江戸時代初期に描かれた成瀬家本を原本として写本・派生が制作されたものです。
徳川美術館所蔵の尾張徳川家伝来の両屏風も江戸時代後期に成瀬家本を元に制作されていますが、成瀬の姿は省略された写本です。他の合戦図屏風でも見られますが、先祖の活躍を強調するなど一部改変されることはよくあることです。合戦図屏風は〝当家のご先祖が武将として活躍した姿を華々しく後世に伝える〟という重要な役目を担っています。

 岐阜市歴史博物館所蔵の賤ヶ岳合戦図屏風は江戸時代初期に描かれ、他の〝軍記物〟に基づいて描かれた屏風よりも古いものです。残念ながら見学出来たのは七本槍の描かれた右隻ではなく左隻でしたが、馬印や旗印は後々参考にされることが多いほどはっきりとわかりやすく実物が見られてよかったです。

大坂夏の陣図屏風も岐阜市歴史博物館所蔵のものですがこれも見たかった屏風の一つです。大坂夏の陣図屏風といえばすぐ思い出されるのが、大阪城天守閣所蔵の戦国のゲルニカと呼ばれている一双でありますが、この岐阜市所蔵のものも充分にスペクタクルであります。ベースは軍記物と思われます。青々としたすやり霞を挟んで徳川軍を迎えうつ豊臣側の真田信繁六文銭の旗印が勇ましいです。翻る旗印・馬印、この躍動感は同じく岐阜市歴史博物館所蔵の関ヶ原合戦図屏風に通じるものがあります。

関ヶ原合戦図屏風の実物でまだ見たことがないのは岐阜市歴史博物館所蔵のものだけなのです。すごく見たい……

 

岐阜市歴史博物館は岐阜公園の中にありますが、そこからロープウェイに乗った金華山の山頂に岐阜城があります。

 

織田信長居館跡

見上げると山頂にお城が見えます。その麓に現在発掘調査中の織田信長居館跡がありました。

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通路の両側や土塁状遺構の側面には板状の巨石は立てて並べられている。

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遺跡のあらまし

 永禄10年(1567)織田信長は、稲葉山城主・斉藤龍興を追放して、「岐阜」の名を採用、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点としました。金華山の西麓には人工的な2〜3段の棚状の地形があって、最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下といいます。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で壮麗なものとして紹介した信長の居館の跡といわれています。
 昭和59年から行われた発掘調査で、両側に板状の巨石を立てて並べ、千畳敷下から千畳敷へと折れ曲がりながら上がっていく通路をはじめとして、その途中や周囲に配置された土塁状遺構・石垣・階段状遺構・水路などが発見されました。岐阜城は、信長が近江の安土へ移った後、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前哨戦で落城するまで続きますが、これらの遺構の多くはその出土品から信長時代にその基本的な形が出来上がったと考えられます。
 発掘調査では、これらの遺構の下にさらに古い時代の遺構群があることが確認されています。石垣・石積施設・階段状遺構などで、これらを埋めて作られた通路など上層の遺構が信長によるものとすれば、稲葉山城に係る斎藤氏時代の可能性が高いといわれています。また数枚の整地した土層が上下に重なっていることが確認されていますが、この中にはいくつかの焼土の面が含まれており、施設の焼亡を挟んで複数の城主による土地の造成が行われていたことが想像されます。
 壮麗豪華な4階建てといわれる信長居館の建築そのものはまだ確認されていませんが。しかし中世から近世への過渡期の在り方を探る上で極めて重要な遺跡であり、このため今回整備工事を行い、将来にわたって保存されることになりました。
(パンフレットより)

 

 

 

岐阜城 

ロープウェイを降り、少しばかり登るとそこにあるのが岐阜城です。濃尾平野を眼下に望む素晴らしいロケーション。これなら天下も丸見えですね!と実感出来ます。

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信長公・道三公ゆかりの城

 岐阜城はかつて稲葉山城と称していました。金華山頂にはじめて砦を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政と伝えられています。戦国時代には、斎藤道三の居城でもあったところです。徳に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄十年(1567年)(一説には永禄七年)八月、不世出の英傑織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてからでした。しあし、慶長五年(1600年)八月、関ヶ原合戦の前哨戦の際信長の孫秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城しました。翌慶長六年、岐阜城は廃墟となり天守閣、櫓等は加納城に移されました。現在の城は昭和三十一年七月、岐阜城再建期成同盟によって復興されたもので、鉄筋コンクリート造り、三層四階構造で述べ451.77㎡、棟高17.7mの威容を誇ります。城内は一階「武具の間」、二階「城主の間」、三階「信長公の間」となっており、最上階の「望楼の間」は展望台として多くの人に親しまれています。
 平成二十三年二月七日、金華山一帯が「岐阜城跡」として、国の史跡に指定されました。

(パンフレットより)

 城下を一望する夜景はきっと素晴らしいものと思われます。

 

 夜は某番組でヤマコーさんが歩いた養老の焼肉街道へ向かい、飛騨牛の内臓までこりこり新鮮な焼肉を堪能しました。

飛騨牛おいしかった!

 

2日目に続きます〜