彦根・京都の旅 その2
二日目 京都・戦国武将ゆかりの史跡巡り
東福寺塔頭の退耕庵を見たい!と事前に予約を問い合わせたわけですが残念ながら現在個人の拝観予約は受け付けていらっしゃらないとのこと、残念……
特別公開の4月12日〜18日はスケジュール的にちょっと無理ということで断念!
拝観したかったなぁ、作夢軒。
作夢軒:安国寺恵瓊が作った茶室。「忍び天井」や「伏侍の間」などがあり、関ヶ原
合戦前に石田三成や宇喜多秀家らと密談をしたといわれている。
ということで、東福寺はまたの機会。
豊国神社
豊国神社
京都市東山区に鎮座する神社。神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の指示により再興された。(wikiより)
なかなかに豪奢な神社でありますが、注目したいのは左にある方広寺と右の宝物館。
宝物館
豊国神社の右奥にあります宝物館には、秀吉の七回忌の臨時祭礼の様子が描かれた重要文化財「豊国祭礼図屏風」六曲一双が展示されています。
祭主ともいえる豊臣秀頼が片桐且元を奉行に命じ、豊臣家の御用絵師であった狩野内膳に描かせた屏風です。豊国神社の社僧の日記により施主・筆者・制作の目的と時期がはっきりとした素性の正しい祭礼図で、ほぼ一週間にわたった臨時祭礼のうちの主立った諸行事を克明に捉え記録的な性格も持っています。
右隻には8月14日豊国廟前、神官の騎馬行列と猿楽田楽、左隻は15日方広寺大仏殿前の盛大な豊国踊の様子が描かれています。
社務所で購入した絵はがきです。
右隻
左隻
で〜んっと宝物殿の入口の左右に鎮座していますので是非是非実物を見に行ってくださいませ。
方広寺
なぜ、そこだけ白枠で囲んで誰が見てもわかるような親切設計になっているのか……
「国家安康」「君臣豊楽」
徳川家康の家と康を分断し家康及び徳川家を冒瀆するものとされ、豊臣滅亡の原因となったと言われていますが、言い掛かりなのかそこまでの含みを持たせて作られたものなのか、本当のところは謎のまま。
本能寺
有名なのにそういえば本能寺って行ったことないので。
現在の本能寺は『本能寺の変』とは少々離れたところにあります。
本能寺跡地にはなにやら現代風のコンセプトの施設があると確認し、そこはちょっと避けようかということになり、現在の本能寺に参りました。
ビルの谷間にひっそりと信長公廟。
信長公廟
信長が光秀の謀反により無念の自刃をとげたのは天正十年(1582)六月二日早朝のことだった 本能寺の変である そのころは当寺は四条西洞院にあり四町四面の広大な寺城 周囲に堀と土塁その内部に七堂伽藍や多くの子院や厩舎をそなえるという城郭構えになっていて信長が常宿するにふさわしい都で唯一の大寺院であった
この大伽藍が烏有に帰し光秀の天下もわずか十数日で終わったあと信長の三男信孝は信長らの燼骨収集の作業をすすめ 本能寺の変から一箇月後の七月三日早くも本能寺を父信長の墓所と定めた この信長の墓はこのとき信孝が建立したものである この廟所には武将の魂とされる信長所持の太刀が納められている當山識
本能寺の「のう」の字がパンフレットでは特殊な文字で変換出来ないのでサイトへ行ってみたのですが、サイトも「本能寺」になっており詳細調べました。
現在能という字をに替えて使用しているが、これは五度も火災に遭遇したので匕(火)を嫌いの字に替えたものである。
なるほどヒを嫌い、納得です。
本能寺の宝物館には本能寺の変の前夜に異変を告げるように鳴き始めたという、唐銅「三本足の蛙」がありました。
さらにひっそりと池の横に見覚えのある名前が……
加藤清正公寄進の「臥牛石」。清正が法華宗の信者であったため半島から持ち帰ったお土産なのではないかと言われているらしいですが、真相は不明のようです。
立本寺
ここには島左近のお墓があると……
墓所の入口には親切な石碑。
寛永九壬申年(1632)六月二十六日没
え?待って、左近って関ヶ原で討死したんじゃないの?
島左近は関ヶ原を敗走後、僧となり晩年を過ごしたという説もあるとのこと。
西軍武将を弔う日々だったのかなと思うと……涙
大徳寺
鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。山門は、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休居士自決の原因となった話は有名。本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。(10月第二日曜日公開)現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ね、それぞれに貴重な、建築、庭園、美術工芸品が多数残されている。 (公式サイトより)
大変広い敷地の中に大小の塔頭がありますが、ほとんどが非公開で特別拝観の時期だけ一般公開されています。
ちょうど三塔頭が特別拝観中だったのですが、国宝の本堂障壁画がある「聚光院」は休観日……残念。ということで残りの二塔頭と一般公開しているところを拝観してまいりました。
龍源院
龍源院
大徳寺の塔頭の一つで大徳寺南派の本庵である。
文亀二年(1502)に大徳寺第七十二世住職・東渓宗牧を開山として、能登(現在の石川県)の領主・畠山義元が豊後(現在の大分県)の大友義長らとともに創建した。
方丈の南、東、北に趣の異なる三つの庭園があり、北側に広がる龍吟庭は、苔の上に三尊石が建つ須弥山式枯山水の名庭で、室町時代の作と伝えられている。南庭(方丈前庭)は、白砂の大海に苔と石組で鶴亀を配した蓬莱式の庭園、また東の東滴壺は日本最小の石庭といわれ、一滴の波紋から大海原の広がりをイメージさせている。
このほか、庫裏の南側には聚楽第の礎石を配した阿吽の石庭がある。
寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔絵の碁盤、天正十一年(1583)の銘がある種子島銃などを蔵している。
「四季草木蒔絵碁盤」
徳川家康が豊臣秀吉と伏見城内で対局した時の碁盤と伝え、初代本因坊の奥書がある。金森長近が秀吉から拝領した。
榧材黒漆塗の碁盤には側面四方に梅・柳、燕子花・蝶、菊、松、竹・水仙花の金蒔絵がある。二個の碁笥には、それぞれ桐と葵の紋が付いている。
映り込んじゃってますが、日本最古の種子島銃(下)
こちらは写真撮影OKでしたのであちこち撮ってまいりました。
黄梅院(特別拝観)
瓦に毛利家の家紋が並ぶ。
黄梅院
大徳寺の塔頭の一つで、織田信長が父・信秀の追悼菩提のため、永禄五年(1562)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に銘じて建立した小庵に始まる。
大徳寺九十八世住持・春林宗俶和尚を開祖に迎え「黄梅庵」と名付けられた。
天正十四年(1586)には秀吉により本堂と唐門が、天正十七年(1589)には毛利元就の子・小早川隆景により庫裏・表門が改築され、この年に「黄梅院」と改められた。庫裏は日本の禅宗寺院において現存する最古のものといわれている。
秀吉の希望により千利休が作庭した枯山水の直中庭のほか、破頭庭、作仏庭など禅寺の風情ある美しい庭園を有している。
本堂の襖絵「竹林七賢図」は雪舟の画風を継ぐ雲谷等顔の代表的な水墨画で、重要文化財に指定されている。また、書院には千利休の茶道の師である武野紹鴎好みの茶室・昨夢軒がある。
墓所には、織田信秀、毛利元就夫妻、元就の息子三兄弟、信長の次女とその夫、蒲生氏郷、毛利一族などが祀られてる。
こちらは写真撮影出来ないので入口まで。
ここはお庭が本当に綺麗でした。
興臨院(特別拝観)
興臨院
大徳寺の塔頭の一つで、大永年中より天文二年間(1521〜1533)に、能登(現在の石川県)の戦国大名・畠山義総が仏智大通禅師を開祖として建立し、自らの法名を寺号としたという。
方丈(重要文化財)は創建後に火災に遭ったが、天文年中(1532〜1555)に再建され、畠山氏が衰退した後も、前田利家によって修復が行われた。方丈玄関の唐門(重要文化財)は室町時代の禅宗様式を見事に表しており、創建当時のものといわれる表門(重要文化財)は「興臨院の古門」として有名である。バイタラ樹の名木がある枯山水庭園や茶席「涵虚亭」も趣深い。
寺宝として椿尾長鶏模様堆朱盆(重要文化財)を所蔵している。
墓地には畠山家歴代の墓のほか、久我大納言夫妻など、当院ゆかりの人々の墓がある。
縁側に座って、ただ無心にお庭をみていると俗世を忘れて幸せになれそうです。
茶室「涵虚亭」
瑞峯院
瑞峯院
大徳寺の塔頭の一つで、天文四年(1535)に九州の戦国大名・大友義鎮(宗麟)公が自分の菩提寺として建立した。大徳寺の徹岫宗九和尚を開祖に迎え、自らの法名をとって瑞峯院と名付けた。宗麟は後にキリスト教の洗礼を受けたキリシタン大名としても知られている。
方丈、唐門、表門(いずれも重要文化財)は創建当時の建物で、方丈には後奈良天皇の宸筆による「瑞峯院」の寺額を掲げている。
庭園は、方丈南庭の独坐庭、中庭の茶庭、方丈北庭の閑眼庭の三面があり、いずれも枯山水の名園である。閑眼庭の中央には、庭を斜めに横切るように縦に四個、横に三個野石が配置され、東の端から眺めると、大きな十字架を形付くっているように見える。
境内の墓地には宗麟夫妻の墓がある。
ご住職と思われるお坊様よりお声かけいただきまして、背筋を伸ばして姿勢良くすることが健康にも繋がるというお話を伺いました。女性は姿勢良く立った時には着物と同じに左前にならないよう右手の上に左手を重ねてきちんと立つ。とても大事。思いがけずよいお話でした。ありがたやありがたや。
三玄院
残念ながら拝観謝絶。
三玄院
天正十七年(1589)浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)が春屋宗園(大宝円鑑国師)を開祖とし、創建した。
小堀遠州・古田織部・薮内剣仲・長谷川等伯などは、春屋に禅を学んだ人々である。
沢庵・千宗旦らも修行をし、春屋・三成・忠政・剣仲・織部の墓がまつられている。
織部好みの三畳台目・八窓の茶室篁庵(江戸時代建築)があり、本堂ふすま絵の八方にらみの虎は原在中の筆による。
石田三成へのお供え物がこの場所に後を絶たないとのこと、ちょうど三成フェスで聞きました。
大仙院
他の塔頭よりも大きな玄関を構え沢庵和尚のゆかりの禅寺ということでご住職が団体さんを前に面白おかしく説法をしておりました。お土産コーナーにはその沢庵和尚の「気は長く 心は丸く 腹立てず人は大きく 己は小さく」という掛け軸をラベルにした沢庵が並んでました。
大仙院
大徳寺の塔頭の一つで、大徳寺北派の本庵である。永正六年(1509)に六角近江守政頼の子・古嶽宗亘(大徳寺七十六世住職)を開祖として創建された。
本堂(方丈)は創建当時の建物で、内部の床の間と玄関は日本最古といわれ、方丈建築としてもっとも古い遺構の一つとして国宝に指定されている。書院も入母屋造で重要文化財である。
相阿弥び山水画、狩野元信の四季花鳥図、狩野之信の四季耕作図(すべて重要文化財)など、襖絵は室町時代の名作障壁画として名高い。
庭園は、室町時代の枯山水を代表する名庭といわれ、狭い庭に白砂と無数の岩石を配して、山と滝と渓流を見事に表しており、国の史跡及び特別名勝に指定されている。
歴代和尚には、千利休と懇意にしていた古渓宗陳和尚、紫衣事件で徳川幕府に一歩も退かなかった澤庵宗彭和尚がいる。
ここではお抹茶をいただきました。
秀吉の千成瓢簞にちなんだお菓子だそうです。ほんのりニッキの香りのする「千瓢」。
総見院
残念ながら非公開でしたが、織田信長の菩提を弔う為に秀吉が創建した総見院。木造の織田信長坐像(重要文化財)や織田家の墓所があります。
高桐院
こちらも非公開。
高桐院
大徳寺の塔頭の一つで、江戸時代初期の武将で茶人として有名な細川忠興(三斎)が、父・幽斎の弟・玉甫紹琮を開祖として建立した細川家の菩提寺である。
三斎は、千利休の七人の高弟(利休七哲)の一人に数えられる名手で、書院は利休の邸宅を移築したものといわれる。書院に続く茶室「松向軒」は三斎好みの二畳台目で、三畳の水屋が付き、壁や天井にも趣向が凝らされている。書院の庭は江戸初期の作庭で、また、本堂の前庭は楓の樹を巧みに配しているのが特徴である。
寺宝として、中国の南宋時代の画家利唐の山水画二幅が有名で、現存する墨絵山水画の圧巻と賞賛されている。
境内には三斎と夫人のガラシャのほか、歌舞伎の創始者とされる出雲阿国らの墓がある。三斎の墓標の石灯籠は、利休が秀吉の望みを断って三斎に贈ったものと伝えられている。
大光院
こちらも非公開。 藤堂高虎によって移されたと言われる豊臣秀長の菩提がある。
今宮神社
ここで、大徳寺を後にしてお隣の今宮神社へ向かう。
目的は参道のあぶり餅
初めていただきましたが、甘い味噌だれの絡んだ芳ばしい一口大のお餅がいくらでも入りそうな感じで美味しかったです。
上賀茂神社
本殿特別参拝と御神宝特別展を見るために上賀茂神社へ向かう。
まず神主様から国宝の本殿と権殿の前で神社のお話を伺い、それから御神宝特別展へ。
神座や式年遷宮記念写真を見学しつつ、ガラスの中に並ぶ織田信長からの古文書を拝見。天下布武の印が印象深かったです。
という頃には、かなり日も傾き京都駅にて解散となりました。
大変楽しく有意義な二日間。
まだまだ見学していないところがあります、京都。
切り絵師さんのご案内ありがとうございました。