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金雲のすき間

合戦図屏風より愛を込めて

広島の旅 その1

史跡・旅 博物館・美術館

ここ数年GWは特に遠出をすることもなく(どこ行っても人混みで……)すごしてきましたが、Twitterのお友達から「広島県立美術館の『徳川名宝展』見に行こう!」とお誘いを受けました。

そういえば毎年のように厳島へ行っていましたが2年ほどご無沙汰。会いたい鹿もいるし、よろしいならば……

GWは厳島へ行こう! 

ということになりました。

 

都内からは新幹線で4時間ですが、今回は一泊二日を有効に使おうと飛行機でびゅーんっと広島入り。

広島空港新しくなってから始めて行ったのですが、なんであんな山の中に作ったのか。前の場所のが便利だったよね?

 

さて、友人と広島駅で合流。
まずは、目的の県立美術館へタクシーで向かう。
午後からの天気は雨、しかも強くなるとのことで予定としてはあまり無理せずに、美術館後に昼食を摂って、広島城不動院。翌日に厳島と計画していました。

毎度ながら行き当たりばったりで、下調べも適当なのはスマホという文明の利器があるがゆえの……というのは言い訳。

 

広島県立美術館縮景園のお隣。以前、一人でぶらっと広島旅行したときにはホテルからてくてく歩いて前を通過したことがありましたので、場所はわかっている。お天気がよければ縮景園にも寄りたいな〜と思ったが雲行きは怪しい。

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なかなか縁の無い岐阜市歴史博物館の所蔵する『関ヶ原合戦図屏風』をみようと意気込んでいたのですが、展示品の入れ替えがあり、ほんとに心底縁がない……

しかし、それ以上の展示品の数々この目でしっかり拝見できましたから、遠路はるばる広島まで行った甲斐はありました。天下取った徳川家ですから、いい物をお持ちです。ありがたやありがたや。

合戦図ではない屏風がいろいろ展示されていましたが「六曲一双」と説明書きがあるのに一隻しかない。というものも多くちょっとがっかりでした。前後期の入れ替えで左右の展示を交換したのでしょうか。せっかく屏風一双ならば、左隻右隻揃った展示が見たかった。図録にはちゃんと左右並んで入ってますので、そちらで我慢であります。

美術館を出ると結構な土砂降り。
広島城はすぐ近くですから雨の中をとぼとぼと移動。

 広島城

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雨とはいえGW。人出は多いです。

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そういえば、2年前来た時も雨でした。

何度目かの広島城ですが、友人と共通した感想が〝刀の展示が増えた!〟
刀流行りなんですね、某ゲームすごいです。びっくり。

止まないどころか、雨足は激しくなる一方……移動にタクシーを使う。

 不動院

重要文化財・楼門

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にわか恵瓊さん好きです。
何度も広島に来ているのに、まだ一度も不動院を拝観したことがありませんでした。
本望であります。

道中、タクシーの運転手さんに「不動院行く人、初めてです」と不思議がられたのですが、国宝ですよ!安国寺恵瓊さんですよ!誰も行かないんですかね……

しかし、雨!
写真に撮っても雨は雨!

新日山安国寺 不動院の歴史

 新日山安国寺不動院は江戸時代の「新山雑記」では、当寺の開基は僧空窓であると伝えられていますが、創建の時代や由緒については判然としていません。
 ただ金堂ないに安置されている本尊薬師如来座像が定朝様式だることから、当寺は平安時代には創建されていたと推察されています。当寺が安国寺不動院と呼ばれる由縁は、足利尊氏、直義公兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺であったことに由来します。以後、安芸安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。
 しかし、戦国時代の大永年間(1521〜27)、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。その後五十年は藁屋に本尊薬師如来を安置する有様であったと記録されています。
 当寺を復興したのが、戦国大名、毛利氏の外交僧として、又、豊臣秀吉公直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊です。恵瓊はこの間当寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備し、寺運は隆盛を極めました。しかし、関ヶ原の合戦で西軍に組した恵瓊は非業の死をとげ、毛利氏も防長二国に国替えとなりました。恵瓊なき後、寺領は没収となり、寺運は次第に衰えてゆきました。
 毛利氏が去った後、福島正則が芸備両国四十九万石の大名として入国し、正則公の祈祷僧である宥珍が入り、住持となりました。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を不動院と称しました。後に当寺院全体を不動院と称するようになりました。正則公の治世は二十年足らずで終わり、浅野氏が新しい国主として広島に入りました。以後藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受け、概ね安定した時期が続きました。やがて明治に至り、当寺は時代の権力者の手から離れ、庶民の信仰の場となりました。
 原子爆弾投下に際しても、地理的条件が幸いして災禍を免れ、一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、昔の栄華を今も留める極めて貴重な存在となっています。
(門前説明書より)

 

 

国宝・金堂

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天井の墨書から天文9年(1540年)の建築と判明する。屋根は入母屋造、柿(こけら)葺き。2階建てのように見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、桁行3間、梁間4間(「間」は柱間の数を意味する)の身舎(もや)の周囲に裳階をめぐらす。裳階は正面側の奥行1間分を吹き放しとする。不動院密教寺院であるが、金堂の建築様式は典型的な禅宗様(唐様)であり、内部を土間床の一室とする点、中央を鏡天井とし、その周囲にぎっしりと組物が並ぶ天井の構成、桟唐戸、花頭窓、礎盤付き柱、扇垂木等に禅宗仏殿特有の形式が見られる。天井高は8.6メートルに達する。この堂は当初から不動院にあったものではなく、もとは山口市にあった禅宗寺院で大内氏菩提寺であった凌雲寺にあった。それを天正年間(1573-1592年)、安国寺恵瓊が当地に移築したものである。原爆による大きな被害も受けず広島市内に現存する唯一の国宝である。
wikiより) 

金堂の中を覗き込んで重文の薬師如来座像も見てきましたが、かなりの大きさがある立派な像でした。一般公開しているときに明るい場所で見てみたいものです。

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国宝だけあって、400年以上前の建築物と思えないほど重厚で立派な建物でした。

重要文化財・鐘楼

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あまりにも鮮やかな色彩の建物だったので、てっきり近代の建造かと思っていたらこれも永享5年(1433年)の建築とのこと、塗り直しているとは思われますが、600年近く前の建造物。寺院や城巡りをしていると、同じ感想しか出てこなくなってしまうのですが、本当に日本建築って素晴らしいなと思うのです。

雨は降り続きもう他を回るのは無理だろうと、考えていたときに目に入ったのがこれ。

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そうだった!恵瓊さんのお墓をお参りしなくては!と土砂降りの中、墓所へと足を伸ばす。

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恵瓊さんは諸説ありますが、安芸武田家の出と言われています。不動院(安芸安国寺)は毛利元就によって滅ぼされた安芸武田家の菩提寺であります。感慨深いですね。

秀吉や信長は、日本中あちらこちらに墓所があるのですが、ここは遺髪とのこと。体が日本列島津々浦々ばらばらになっているようで、いいのかなそれで……

 

雨の中回った一日目の戦利品。

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なぜ広島まで行って、屏風のクリアフォルダー買ってるのか自分でもよくわかりません!

ということで二日目に続きます。

トーハクへ『洛中洛外図屏風・舟木本』を見に行ってきました

博物館・美術館 合戦図屏風・屏風

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洛中洛外図屏風(舟木本)』はトーハクの所蔵品でありますが、平成28年度新たに国宝と指定されました。めでたいです。

そこで、今回トーハクでは新たに指定される国宝4件、重要文化財46件と、追加指定された重要文化財5件のうち、4件の国宝を含む52件を展示。

 

これは原本を直接見ることの出来る貴重なチャンス!

ということで、先週末に米沢で上杉本を見たばかりだというのに、上野へGO!上野近いです、米沢より全然近いです。

さて、いつもなら1階の仏像からゆっくりと回るのですが心は既に洛中洛外図屏風。さささっと軽く流しながら気持ちはすっかり2階8号室。

途中、作者不明、江戸時代の『洛中洛外図屏風(右隻)』がありましたので、パチリ。

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洛中洛外図屏風』は国内に100種くらいあるそうで、昨年トーハクで見たものともまた違うものですが、これもなかなかに立派。しかしなぜ右隻だけなのか。反対側にもしかして左隻?と移動してみたのですがありませんでした。右隻だけだとちょっと寂しい。

さて『国宝・洛中洛外図屏風(舟木本)』は撮影禁止です。単眼鏡を構えて隅から隅まで舐めるように見て参りました。
先週見てきた上杉本よりも地味に感じるのは金雲がくすんでいたせいかと思われます。上杉本の金雲きんきらきんでとても400年以上前のものとは思えない鮮明さでしたから、それと比べると舟木本は若干派手さには欠けます。しかし!京の都に集う人々の動きは賑やかです。さすが、浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛の作、都人の日常が生き生きと描かれています。場面場面がとても楽しい。

ミュージアムシアターで舟木本の要所要所を拡大して解説してくれる上映会がありましたが、これがなかなかに面白かったです。屏風に張り付いて単眼鏡で見てもよくわからない小さな場面をスクリーンいっぱいに拡大し、説明してくれます。今回は右隻だけでしたが、6月からは左隻を見せてくれるそうなのでまた行った時に寄ってみたいと思います。

さて、今回も屏風コーナーに行ってみました。

写真撮影OKの絢爛豪華な一隻。

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◆大原御幸図屏風 長谷川久蔵筆 安土桃山時代16世紀
 『平家物語』終盤の名場面。平清盛の娘で安徳天皇の母、建礼門院は洛北大原に庵を結び、源氏に滅ぼされた平家一門の菩提を弔う。そこに後白河法皇が秘かに訪ねる。草木の繊細な描写が、建礼門院の儚げな境遇と共鳴。長谷川等伯の長男久蔵の数少ない遺作だ。

 

 他には
◆藤棚図屏風(六曲一双)狩野伯円筆 江戸時代18世紀
◆賀茂競馬・宇治茶摘図屏風(六曲一双)久隅守景筆 江戸時代17世紀

がありました。

 

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人混みの中で立ち止まる事も出来ず流れて見学するという苦行もなく、今回もゆっくりと洛中洛外図屏風(舟木本)堪能することができました。

 

超高速!米沢日帰りの旅

史跡・旅 博物館・美術館

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『国宝 洛中洛外図屏風・上杉本』の原本が公開になると知り、スケジュール的にこれは行ける!と、急遽予定を変更して、超高速!米沢日帰りを決行いたしました。

 

米沢行くのは昔々スキーで天元台行ったな、そういば……というくらいの久し振り。

折しも東京は葉桜となった頃の東北ですから、当然のように満開に咲く桜!
綺麗でした!

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お天気も良く上杉博物館のある『伝国の杜』は家族連れで賑わっておりました。

さて、上杉博物館。

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『特別展 米沢中納言上杉景勝』に合わせて、一ヶ月だけの原本特別展示。
屏風見るためだけに新幹線に乗って日帰りする自分もどうかと思うけど大人ですから!

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期待に胸膨らませ、いざ博物館へ。

屏風はちょっと離れて全体を見たい人ですが、洛中洛外図屏風に関してはガラスに張り付くくらいの距離で端から端まで細かく眺めたいものです。金雲に枠取りされた都生活の場面場面が詳細に繊細な線で描き込まれています。これは遠くから眺める為の屏風ではないのではないですかね。
東京の大々的な「特別展」ですと、行列がすごくてゆっくり立ち止まって眺めることもできず(最近ですと〝大 関ヶ原展〟の関ヶ原合戦図屏風とか)せわしない状況での鑑賞となるわけですが、今回の上杉博物館素晴らしい!人がいないわけではなく、そこそこ入館者もあるのですが空いているので何度も右端から眺め直し、ちょっと他の展示物を眺めてきてはまた戻りを繰り返すこと1時間近く館内にいましたので充分『洛中洛外図屏風』を堪能いたしました。幸せであります。

文書の展示も「秀吉から景勝へ〝政宗が蘆名家勝手に滅ぼしちゃったからなんとかしてね〟」などとなかなかに興味深い物が多く珍しく屏風以外もじっくり眺めてまいりました。

図録はありがたいです。洛中洛外図屏風の図録はまさか米沢まで行くことはないだろうと、かなり以前に通販で購入済でしたので今回の特別展だけでしたから荷物も重くない!

また、常設展示の方にあった『徒然草図屏風』六曲一双。初お披露目だったようで「徒然草」の各場面をちりばめた物語屏風。なかなかに雅でありました。
丁寧な調度品であることから上杉家伝来のものである可能性もあるそうです。

 

さて、洛中洛外図屏風を堪能した後はまだ日が暮れるまで時間もあり、あまり遠方でない周囲にある史跡を見ようとぶらぶら散策いたしました。

元々この伝国の杜が米沢城跡になるので上杉神社周りに堀が残っています。

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博物館に一番近いところで『松岬神社』

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松岬神社

 明治三十五年に上杉神社から上杉鷹山分祀し「松岬神社」と称し、大正元年に社殿を建立した。対象十二年に米沢藩初代藩主の上杉景勝を合祀、昭和十三年には景勝の重臣・直江兼続、鷹山の師・細井平洲、鷹山の藩改革を補佐した功臣・竹俣当綱と莅戸善政を合祀して、祭神は六柱となった。
 社号は米沢城の別称「松岬城」に由来し、境内には鷹山が隠居した際、藩主治広に与えた藩主の心得三か条「伝国の辞」の石碑などが建つ。

(神社前説明板より)

 

 さらに、参詣で賑わう上杉神社

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上杉神社の隣には宝物殿である稽照殿があり拝観。上杉謙信や景勝、直江兼続の甲冑や兜、昆の旗印などなど、え?本物?!というさりげなさで展示されています。上杉家の軍旗・紺地日輪の旗や兼続の「愛」ありましたが、兼続の「違い櫂と日輪」の前立てがどう見ても野球のバットとボールに見えて、一瞬オーパーツ?と思ってしまったのはここだけの話にしておきます。
謙信公の書状はと柔らかい筆跡の仮名書きで〝女性説〟があるのも頷けるものでした。
あと忘れてはいけません。複製でしたが『川中島合戦図屏風』が展示されていました。

 

上杉神社の手前にあったのが『上杉謙信祠堂(御堂)跡』

 

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上杉謙信祠堂(御堂)跡

 江戸時代、上杉謙信の遺骸を安置した御堂(祠堂)が建っていた場所である。
 謙信は天正六年(1578)三月十三日、越後春日山城で逝去、享年四十九であった。その遺骸は甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉したと言われている。
 その後、謙信の跡を継いだ上杉景勝会津百二十万石、米沢三十万石に移封されるに伴い、謙信の遺骸も移され、米沢城南東隅のこの地に御堂を建て安置した。
 謙信遺骸の左右には善光寺如来と泥足毘沙門像が置かれ、その後は歴代藩主の位牌も祀り、最も神聖な場所として厳重かつ鄭重に祀られた。
 明治四年の廃藩に際し、仏式を改め神式とし、謙信は上杉神社の祭神として祭られる。謙信の遺骸は、同九年に歴代藩主が眠る御廟所(上杉家墓所)に移された。

(祠堂前説明板より)

 

 次にさらにぶらぶらと『上杉家御廟所』まで足を伸ばしました。

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荘厳な上杉家の墓所であります。

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さすが乱世の戦国時代から江戸時代、幕末を経て現代へと続く名家の墓所。厳かにしてただただ圧巻でありました。

上杉家御廟(米沢藩主上杉家墓所

 上杉家墓所は、米沢では「御廟」または「おたまや」と呼ばれ、親しまれてきました。昭和五十九年(1984)一月十一日、全国の大名家墓所としては五番目に、国指定史跡として登録されています。
 御廟は、東西約113m、南北約180mで、約二ヘクタールの面積を有し、柵の外側には、幅約3.6m空堀と土塁が廻らされています。江戸時代初期から後期までの歴代藩主の廟が一つの場所に並置されるのは珍しく、近世大名家墓所の代表とされています。
(パンフレットより)

 

 法音寺・上杉家菩提寺

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もうちょっとがんばって春日山林泉寺まで行きたかったのですが、如何せん足がない。タクシー拾えるかと思ったら全然走ってないし、レンタサイクルも駅まで戻らないとなさそうで、とにかく洛中洛外図屏風を見るんだ!という意気込みだけの無計画日帰りだったがゆえの〝近場だけ〟になってしまったのがちょっと残念。せめてレンタカーでも借りればよかった。

 

ということで大きな反省。

地方の史跡を回るときはタクシーは拾えないと思え!

よく歩きました。がんばった。
そして、とても有意義で楽しい一人旅でありました。

『俺たちの国芳 わたしの国貞』展へ行って来ました

博物館・美術館

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そういえばBunkamura初めてだわ、と渋谷。
上野より近いのでよいです。

浮世絵、色も構図も絵柄もPOPです。

絵草紙であり、歌舞伎役者のブロマイドであり、舞台パンフレットであり、広告であり……ということは浮世絵というのは、どちらかといえば時代の最先端をいくポップカルチャーですよね。

芸術として認められたのは近年で、江戸時代はもっと庶民にとって身近な存在だったのだろうと。

国芳の猫可愛くて、グッズコーナーでガチャガチャやって踊る猫又の根付けゲットしてきました。あと猫骸骨となんとなく手拭いも(笑)

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図録眺めつつ、江戸時代の流行を考えると楽しいですね。

屏風から始まって、日本画に非常に興味あるのですがまだまだ勉強不足です。
わからないことが多いからこそ日々その探求が楽しくもあります。今年は見に行きたい美術展・特別展がたくさんあり楽しい一年になりそうです。

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彦根・京都の旅 その2

史跡・旅

二日目 京都・戦国武将ゆかりの史跡巡り

東福寺塔頭の退耕庵を見たい!と事前に予約を問い合わせたわけですが残念ながら現在個人の拝観予約は受け付けていらっしゃらないとのこと、残念……
特別公開の4月12日〜18日はスケジュール的にちょっと無理ということで断念!

拝観したかったなぁ、作夢軒。

作夢軒:安国寺恵瓊が作った茶室。「忍び天井」や「伏侍の間」などがあり、関ヶ原
    合戦前に石田三成宇喜多秀家らと密談をしたといわれている。

 

ということで、東福寺はまたの機会。

 

豊国神社

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豊国神社

京都市東山区に鎮座する神社。神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の指示により再興された。(wikiより)

なかなかに豪奢な神社でありますが、注目したいのは左にある方広寺と右の宝物館。

宝物館

豊国神社の右奥にあります宝物館には、秀吉の七回忌の臨時祭礼の様子が描かれた重要文化財「豊国祭礼図屏風」六曲一双が展示されています。
祭主ともいえる豊臣秀頼片桐且元を奉行に命じ、豊臣家の御用絵師であった狩野内膳に描かせた屏風です。豊国神社の社僧の日記により施主・筆者・制作の目的と時期がはっきりとした素性の正しい祭礼図で、ほぼ一週間にわたった臨時祭礼のうちの主立った諸行事を克明に捉え記録的な性格も持っています。

右隻には8月14日豊国廟前、神官の騎馬行列と猿楽田楽、左隻は15日方広寺大仏殿前の盛大な豊国踊の様子が描かれています。

社務所で購入した絵はがきです。

右隻

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左隻 

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で〜んっと宝物殿の入口の左右に鎮座していますので是非是非実物を見に行ってくださいませ。

 

方広寺

大坂の陣の原因となった方広寺の梵鐘

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なぜ、そこだけ白枠で囲んで誰が見てもわかるような親切設計になっているのか……

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「国家安康」「君臣豊楽」
徳川家康の家と康を分断し家康及び徳川家を冒瀆するものとされ、豊臣滅亡の原因となったと言われていますが、言い掛かりなのかそこまでの含みを持たせて作られたものなのか、本当のところは謎のまま。

 

 

本能寺


有名なのにそういえば本能寺って行ったことないので。

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 現在の本能寺は『本能寺の変』とは少々離れたところにあります。
本能寺跡地にはなにやら現代風のコンセプトの施設があると確認し、そこはちょっと避けようかということになり、現在の本能寺に参りました。

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ビルの谷間にひっそりと信長公廟。

信長公廟
信長が光秀の謀反により無念の自刃をとげたのは天正十年(1582)六月二日早朝のことだった 本能寺の変である そのころは当寺は四条西洞院にあり四町四面の広大な寺城 周囲に堀と土塁その内部に七堂伽藍や多くの子院や厩舎をそなえるという城郭構えになっていて信長が常宿するにふさわしい都で唯一の大寺院であった
この大伽藍が烏有に帰し光秀の天下もわずか十数日で終わったあと信長の三男信孝は信長らの燼骨収集の作業をすすめ 本能寺の変から一箇月後の七月三日早くも本能寺を父信長の墓所と定めた この信長の墓はこのとき信孝が建立したものである この廟所には武将の魂とされる信長所持の太刀が納められている

                               當山識

 

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本能寺の変での戦没者

本能寺の「のう」の字がパンフレットでは特殊な文字で変換出来ないのでサイトへ行ってみたのですが、サイトも「本能寺」になっており詳細調べました。

現在能という字を能に替えて使用しているが、これは五度も火災に遭遇したので匕(火)を嫌い能の字に替えたものである。

なるほどヒを嫌い、納得です。

本能寺の宝物館には本能寺の変の前夜に異変を告げるように鳴き始めたという、唐銅「三本足の蛙」がありました。

さらにひっそりと池の横に見覚えのある名前が……

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加藤清正公寄進の「臥牛石」。清正が法華宗の信者であったため半島から持ち帰ったお土産なのではないかと言われているらしいですが、真相は不明のようです。

 

立本寺

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ここには島左近のお墓があると……

f:id:ujikintoki_byoubu:20160407145045j:plain 墓所の入口には親切な石碑。

 

寛永九壬申年(1632)六月二十六日没f:id:ujikintoki_byoubu:20160407145233j:plain

え?待って、左近って関ヶ原で討死したんじゃないの?
島左近関ヶ原を敗走後、僧となり晩年を過ごしたという説もあるとのこと。
西軍武将を弔う日々だったのかなと思うと……涙

 

大徳寺

大徳寺

臨済宗大徳寺派大本山で龍寶山と号する。

鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。山門は、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休居士自決の原因となった話は有名。本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。(10月第二日曜日公開)現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ね、それぞれに貴重な、建築、庭園、美術工芸品が多数残されている。 (公式サイトより)

 大変広い敷地の中に大小の塔頭がありますが、ほとんどが非公開で特別拝観の時期だけ一般公開されています。
ちょうど三塔頭が特別拝観中だったのですが、国宝の本堂障壁画がある「聚光院」は休観日……残念。ということで残りの二塔頭と一般公開しているところを拝観してまいりました。 

 龍源院

龍源院

 大徳寺の塔頭の一つで大徳寺南派の本庵である。
 文亀二年(1502)に大徳寺第七十二世住職・東渓宗牧を開山として、能登(現在の石川県)の領主・畠山義元が豊後(現在の大分県)の大友義長らとともに創建した。
 方丈の南、東、北に趣の異なる三つの庭園があり、北側に広がる龍吟庭は、苔の上に三尊石が建つ須弥山式枯山水の名庭で、室町時代の作と伝えられている。南庭(方丈前庭)は、白砂の大海に苔と石組で鶴亀を配した蓬莱式の庭園、また東の東滴壺は日本最小の石庭といわれ、一滴の波紋から大海原の広がりをイメージさせている。
 このほか、庫裏の南側には聚楽第の礎石を配した阿吽の石庭がある。
 寺宝として、豊臣秀吉徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔絵の碁盤、天正十一年(1583)の銘がある種子島銃などを蔵している。

 

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「四季草木蒔絵碁盤」
徳川家康豊臣秀吉伏見城内で対局した時の碁盤と伝え、初代本因坊の奥書がある。金森長近が秀吉から拝領した。
榧材黒漆塗の碁盤には側面四方に梅・柳、燕子花・蝶、菊、松、竹・水仙花の金蒔絵がある。二個の碁笥には、それぞれ桐と葵の紋が付いている。

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映り込んじゃってますが、日本最古の種子島銃(下)

 

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こちらは写真撮影OKでしたのであちこち撮ってまいりました。

 

黄梅院(特別拝観)

 

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瓦に毛利家の家紋が並ぶ。

黄梅院

 大徳寺の塔頭の一つで、織田信長が父・信秀の追悼菩提のため、永禄五年(1562)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に銘じて建立した小庵に始まる。
 大徳寺九十八世住持・春林宗俶和尚を開祖に迎え「黄梅庵」と名付けられた。
 天正十四年(1586)には秀吉により本堂と唐門が、天正十七年(1589)には毛利元就の子・小早川隆景により庫裏・表門が改築され、この年に「黄梅院」と改められた。庫裏は日本の禅宗寺院において現存する最古のものといわれている。
 秀吉の希望により千利休が作庭した枯山水の直中庭のほか、破頭庭、作仏庭など禅寺の風情ある美しい庭園を有している。
 本堂の襖絵「竹林七賢図」は雪舟の画風を継ぐ雲谷等顔の代表的な水墨画で、重要文化財に指定されている。また、書院には千利休の茶道の師である武野紹鴎好みの茶室・昨夢軒がある。
 墓所には、織田信秀毛利元就夫妻、元就の息子三兄弟、信長の次女とその夫、蒲生氏郷、毛利一族などが祀られてる。

 こちらは写真撮影出来ないので入口まで。

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ここはお庭が本当に綺麗でした。

 

 興臨院(特別拝観)

興臨院

 大徳寺の塔頭の一つで、大永年中より天文二年間(1521〜1533)に、能登(現在の石川県)の戦国大名・畠山義総が仏智大通禅師を開祖として建立し、自らの法名を寺号としたという。
 方丈(重要文化財)は創建後に火災に遭ったが、天文年中(1532〜1555)に再建され、畠山氏が衰退した後も、前田利家によって修復が行われた。方丈玄関の唐門(重要文化財)は室町時代禅宗様式を見事に表しており、創建当時のものといわれる表門(重要文化財)は「興臨院の古門」として有名である。バイタラ樹の名木がある枯山水庭園や茶席「涵虚亭」も趣深い。
 寺宝として椿尾長鶏模様堆朱盆(重要文化財)を所蔵している。
 墓地には畠山家歴代の墓のほか、久我大納言夫妻など、当院ゆかりの人々の墓がある。

 

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 縁側に座って、ただ無心にお庭をみていると俗世を忘れて幸せになれそうです。

f:id:ujikintoki_byoubu:20160407214913j:plain茶室「涵虚亭」

 

瑞峯院

 

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瑞峯院

 大徳寺の塔頭の一つで、天文四年(1535)に九州の戦国大名・大友義鎮(宗麟)公が自分の菩提寺として建立した。大徳寺の徹岫宗九和尚を開祖に迎え、自らの法名をとって瑞峯院と名付けた。宗麟は後にキリスト教の洗礼を受けたキリシタン大名としても知られている。
 方丈、唐門、表門(いずれも重要文化財)は創建当時の建物で、方丈には後奈良天皇の宸筆による「瑞峯院」の寺額を掲げている。
 庭園は、方丈南庭の独坐庭、中庭の茶庭、方丈北庭の閑眼庭の三面があり、いずれも枯山水の名園である。閑眼庭の中央には、庭を斜めに横切るように縦に四個、横に三個野石が配置され、東の端から眺めると、大きな十字架を形付くっているように見える。
 境内の墓地には宗麟夫妻の墓がある。

 

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 ご住職と思われるお坊様よりお声かけいただきまして、背筋を伸ばして姿勢良くすることが健康にも繋がるというお話を伺いました。女性は姿勢良く立った時には着物と同じに左前にならないよう右手の上に左手を重ねてきちんと立つ。とても大事。思いがけずよいお話でした。ありがたやありがたや。

 

三玄院 

残念ながら拝観謝絶。

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三玄院

 天正十七年(1589)浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)が春屋宗園(大宝円鑑国師)を開祖とし、創建した。
 小堀遠州古田織部・薮内剣仲・長谷川等伯などは、春屋に禅を学んだ人々である。
 沢庵・千宗旦らも修行をし、春屋・三成・忠政・剣仲・織部の墓がまつられている。
 織部好みの三畳台目・八窓の茶室篁庵(江戸時代建築)があり、本堂ふすま絵の八方にらみの虎は原在中の筆による。

 

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石田三成へのお供え物がこの場所に後を絶たないとのこと、ちょうど三成フェスで聞きました。

 

大仙院

他の塔頭よりも大きな玄関を構え沢庵和尚のゆかりの禅寺ということでご住職が団体さんを前に面白おかしく説法をしておりました。お土産コーナーにはその沢庵和尚の「気は長く 心は丸く 腹立てず人は大きく 己は小さく」という掛け軸をラベルにした沢庵が並んでました。

大仙院

 大徳寺の塔頭の一つで、大徳寺北派の本庵である。永正六年(1509)に六角近江守政頼の子・古嶽宗亘(大徳寺七十六世住職)を開祖として創建された。
 本堂(方丈)は創建当時の建物で、内部の床の間と玄関は日本最古といわれ、方丈建築としてもっとも古い遺構の一つとして国宝に指定されている。書院も入母屋造で重要文化財である。
 相阿弥び山水画、狩野元信の四季花鳥図、狩野之信の四季耕作図(すべて重要文化財)など、襖絵は室町時代の名作障壁画として名高い。
 庭園は、室町時代枯山水を代表する名庭といわれ、狭い庭に白砂と無数の岩石を配して、山と滝と渓流を見事に表しており、国の史跡及び特別名勝に指定されている。
 歴代和尚には、千利休と懇意にしていた古渓宗陳和尚、紫衣事件徳川幕府に一歩も退かなかった澤庵宗彭和尚がいる。

 ここではお抹茶をいただきました。

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秀吉の千成瓢簞にちなんだお菓子だそうです。ほんのりニッキの香りのする「千瓢」。

 

総見院

残念ながら非公開でしたが、織田信長の菩提を弔う為に秀吉が創建した総見院。木造の織田信長坐像(重要文化財)や織田家の墓所があります。

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高桐院

こちらも非公開。

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高桐院

 大徳寺の塔頭の一つで、江戸時代初期の武将で茶人として有名な細川忠興(三斎)が、父・幽斎の弟・玉甫紹琮を開祖として建立した細川家の菩提寺である。
 三斎は、千利休の七人の高弟(利休七哲)の一人に数えられる名手で、書院は利休の邸宅を移築したものといわれる。書院に続く茶室「松向軒」は三斎好みの二畳台目で、三畳の水屋が付き、壁や天井にも趣向が凝らされている。書院の庭は江戸初期の作庭で、また、本堂の前庭は楓の樹を巧みに配しているのが特徴である。
 寺宝として、中国の南宋時代の画家利唐の山水画二幅が有名で、現存する墨絵山水画の圧巻と賞賛されている。
 境内には三斎と夫人のガラシャのほか、歌舞伎の創始者とされる出雲阿国らの墓がある。三斎の墓標の石灯籠は、利休が秀吉の望みを断って三斎に贈ったものと伝えられている。

大光院

こちらも非公開。 藤堂高虎によって移されたと言われる豊臣秀長の菩提がある。

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今宮神社

ここで、大徳寺を後にしてお隣の今宮神社へ向かう。

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目的は参道のあぶり餅

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初めていただきましたが、甘い味噌だれの絡んだ芳ばしい一口大のお餅がいくらでも入りそうな感じで美味しかったです。

 

上賀茂神社

本殿特別参拝と御神宝特別展を見るために上賀茂神社へ向かう。

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まず神主様から国宝の本殿と権殿の前で神社のお話を伺い、それから御神宝特別展へ。
神座や式年遷宮記念写真を見学しつつ、ガラスの中に並ぶ織田信長からの古文書を拝見。天下布武の印が印象深かったです。

 

という頃には、かなり日も傾き京都駅にて解散となりました。

大変楽しく有意義な二日間。

まだまだ見学していないところがあります、京都。

切り絵師さんのご案内ありがとうございました。

彦根・京都の旅 その1

史跡・旅

一日目 彦根・三成フェス

 

3月26日に滋賀県で開催された『三成フェス』に参加すべく彦根までいってまいりました。岐阜在住のお友達が米原までわんこと一緒に迎えに来てくれ、もう一人の友人と三人で彦根・京都の旅一泊二日のスタートです。

 

まずは米原駅に降り立つとそこには……

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滋賀県がめちゃくちゃ石田三成推しです。
もしかしてもしかすると大河の誘致を目指しているんじゃないでしょうかね。

 

お迎えの車に乗り込むと2匹のわんこがお出迎え。

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お邪魔します、狭くしちゃってごめんなさいね。

『三成フェス』までは時間があるので、米原市世継の春日神社にある三成お手植えの藤を見学に。

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まだ葉も出てない時期ですから、なんだかとても寂しい。満開の藤棚が見たいですね。

 春日神社由来

 世継(旧法性寺村大字世継字北材木)に鎮座す。
祭神天児屋根命なり嘗って奈良興福寺の僧仁秀当地に来たり興福寺を建立せし時、守護神として春日の神を勧請せるるものなり。
 往昔社殿誠に壮大にして美麗帰向するもの多かりしが興福寺退転するに及び次第に衰退し世継三右エ門漸く鎮守として奉斎するに過ぎざり。
 嘗って石田三成当地に参拝して藤一株を手づから栽植し祈念の印とせりとて傅えて今に培養を怠らず。大に繁茂す。
 正保四年協議の結果 今の地に遷座し北世継の産土神として尊崇す。
 現在の社殿は其の当時の再建に係わるものなり。明治初年当時は戸長、時世一変せるを以って古記録等の必要なしとて焼却し煩雑よる逃れんとせり。されば其の由来縁起等、充分知り難し。
 祭礼は蛭子神社と同じく毎年五月一日、九月十七日の両度とす。

 

 と、案内より引用。

 

美味しい親子丼を昼食にいただき、いざ『三成フェス』へ!

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 滋賀県はとってもゆるきゃら多いような気がします。
おそらく元祖ゆるきゃら・ひこにゃんのせい……

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三成のイベントに駆けつけた友情出演のよっしー、敦賀市の広報の方が名刺を配ってました。

 

 県知事の「満月になれない三日月です」ってきっといろんなところで掴みに使ってるんだろうな、と思いつつ楽しい知事さんでちょっとうらやましい。

基調講演「今、石田三成を再評価する」静岡大学名誉教授 小和田哲男先生のお話。
屏風関係の本もたくさん書かれていらっしゃいますが今回は屏風の話はないだろうと、拝聴いたしました。

以下レジュメ

 今、石田三成を再評価する

1.敵(徳川方)も石田三成を「義の人」とみていた

 徳川光圀の証言
 「石田治部少輔三成は、悪からざるもの也。人各その主の為めにすと云う義にて、
  心を立て事を行ふもの、かたき成とて悪むべからず」(『桃源遺事』)

 貶められたのはなぜか
 「歴史は勝者が書いた勝者の歴史」
 「神君中心史観」

2.三成の四つの功績
 豊臣政権諸政策の牽引車として
 「計数の才」を生かして兵站奉行として
 都市計画のプランナーとして
 諸大名と秀吉の取次役として

3.三成の人となり
 清廉潔白な人がら
 島左近を高禄で召し抱える
 三成の危機管理能力
 領主として誠実な百姓との接し方
 「何事によらず、百姓めいわくの儀あらば、そうじゃなしにめやすを以、にはそうせう可仕候。如此申とて、すぢなく事申上候はゝ、きうめいの上、けつく其身くせ事たるべく候間、下にてよくせんさく候て、可申上候事」(「石田三成村掟条々」)

4.関ヶ原の戦いと三成
 武功派との軋轢はなぜ生まれたか
 三成の豊臣家世襲路線と家康の「天下はまわりもち」
 「負けるとわかって突っ込んだ」はまちがい
 家康の根回しに負けた三成

 

内容的には初心者向け石田三成という感じで大変わかりやすいお話でした。

 

次がパネルディスカッション「石田三成×滋賀県
 パネラー  元NHKエグゼクティブアナウンサー:松平定知さん
       NHK大河ドラマ真田丸」制作統括:屋敷陽太郎さん
       歴ドル             :小日向えりさん

 コーディネーター 滋賀県立大学教授 中井均先生

上手に面白おかしく仕切っていた中井先生の講義聴いてみたいと思いました。
注目の「真田丸」の中で三成はどういう描き方をされるかという質問には「主人公の友人としての出演なので悪いようになならない」とのこと、官兵衛の時とは違う大河三成が見られそうです。楽しみです。

あとは抽選会などありましたが、くじ運は無い人ですのでお察しでございます。

 

ではお土産物など見に行こうかと、彦根の戦国丸へ。
隣の「治部少丸」にて関ヶ原合戦図屏風のレプリカを発見。

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彦根博物館所蔵のものですね。これ贅沢にも裏側が……

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同じく彦根城博物館が所蔵している大坂夏の陣図屏風(若江の戦い)がががが(笑)
リバーシブルレプリカ!
欲しいです、これ!マジで!!

ここにある墨絵の三成がとてもかっこいい。

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すばらしい躍動感!
隅っこの小さいサインがおそらく真田丸三成役の山本耕史さんのものではないかと。
そういえば三成フェスで何度も「山田……山本耕史さん」と言い間違えられていてちょっとお気の毒でした。

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夜は焼肉で盛り上がりつつ、ひこにゃんに別れを告げて夜のうちに京都へと移動。
2日目は京都の戦国武将関係寺院を回りました。 

 

つづく〜 

合戦図屏風研究の今後

合戦図屏風・屏風

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何か新しい情報や史料はないだろうかと時々「合戦図屏風」でググってみたりしています。

ここが引っかかったりして、そうじゃない!私の探しているのはそれじゃない!と怒りつつあっちこっち覗き回っています。
以前も書きましたが合戦図屏風の研究自体が近年に始まったばかりですから、論文も少ないです。

と、思っていたらこんなサイトを発見しました。

東京大学史料編纂所

2016(平成28)年度 東京大学史料編纂所 特定共同研究 共同研究員募集要項

Historiographical Institute The University of Tokyo

 今年度の共同研究員を募集している項目を確認すると……

『複合史料領域  ○戦国合戦図の総合的研究』

おおおおお!三年掛けて屏風を含む戦国合戦図の研究をするということですね!

7.課題の概要(400 字程度) (この項は広報等に利用・掲載することがあります)

中近世武家社会において作成されたさまざまな「合戦図」について、屏風絵あるいは 合戦地図、そのほか主として武家文書群などに含まれるいくさにかかわる画像史料を広 く収集・検討し、それぞれの描かれ方や諸本の系統、そこに描かれた内容などを研究する。それぞれの「合戦図」の典拠となる情報(軍記・家伝など)を追究し、これらがいかなる理由で作成されたのか、(近世)武家社会における「戦国合戦」に対する歴史認識、 また武家社会においてこれら「合戦図」が作成された歴史的意義について明らかにする。 またたとえば屏風絵(合戦図屏風)や合戦地図を比較検討することにより、これらが相互に関係していたのかどうかなど、個々のジャンルの「合戦図」の史料的性格を可能な かぎり明らかにする。

ああ!こういう資料を読みたいと思っていたのです!これから研究が始まるということは……今まで研究されてなかったんだ、やっぱり。資料ないわけだ。

合戦図屏風はただの戦国史の挿絵ではなく、そこにはどんな歴史的な意義があったのか。江戸時代後期に量産された意味は。すごく知りたい辺りです。

「合戦図」の研究は、合戦図屏風に関心のある文献史学の研究者、および絵画史料の 歴史研究者はもとより、中世・近世各時代の研究者、また軍記・兵学といった国文学・ 思想史研究者が垣根を越えて取り組む必要がある。

 すごくツボです!そうなんです。史学だけではなく様々な方向からの研究が必要になるのが戦国合戦図だと思うのです。

11. 研究成果の公開計画 可能なかぎり史料編纂所所蔵の「合戦図」を撮影し、これらをデータベースを介して公開 する。また共同研究員各自がそれぞれの関心から「合戦図」の研究を進め、論文集のようなかたちでまとめる。 

今後の研究がとても楽しみです!三年後に何らかの形で発表されるであろう論文を楽しみに生きていこうと思いました。

屏風の研究はこれからだ!