金雲のすき間

合戦図屏風より愛を込めて

トーハクへ友松の屏風を見に行ってきました

トーハクの屏風絵のコーナーが好きなのですが、今回は海北友松ということで行かねば!

 

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◆宮女琴棋書画図屏風(六曲一双) 海北友松筆 安土桃山〜江戸時代16〜17世紀《重要文化財

 琴棋(囲碁)書画の四芸は教養人必須の風流事とされ、とくに室町期以降、日本で好画題となった。通常男性文人が描かれるが中国の官女の姿に換え、琴は包まれたまま碁は右端に放置。着色と水墨の並置も独特だ。桃山絵画界を代表する友松の魅力あふれる傑作。

海北友松の経歴って面白いですよね。武家に生まれながらも僧となりさらには絵画の腕を認められて画家となった人です。 

浅井氏家臣・海北綱親の五男として生まれる(三男説もあり)。天文4年に父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で修行。このときに狩野派を学んだらしい。師匠は狩野元信とも狩野永徳ともいわれているがはっきりしない。天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡し兄達も討ち死にしたのち、還俗し海北家の再興をめざしたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去り、晩年は画業に専念した。

東福寺で退耕庵主であった安国寺恵瓊と親しくなったと思われます。

乱世にジョブチェンジした画家の生涯がどんなであったのか、とても興味あるところであります。

『戦国の陣形』を読みました

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一次資料を具体的に提示しながら理路整然と定説をひっくり返す新説は興味深かったです。合戦過渡期から徐々に陣形が成立していくようすもわかりやすく書かれていました。特に「八陣」の解釈や、「魚鱗の陣=びっしりの陣・鶴翼の陣=ばっさりの陣」というのは目から鱗。

しか〜し、私が興味を強く抱いたのはやはり陣形ではなく屏風だった!

表紙が川中島合戦図屏風(岩国歴史美術館所蔵)のものですからそっちかと思うでしょ。違うのです、関ヶ原合戦の新解釈からのぉ津軽屏風、妙に納得しました。

つまるところ関ヶ原合戦です。
新釈引用

西軍が布陣を整える前に秀秋の裏切りがあり、あっけなく勝敗が決したのである。

著者の新説によると、通説通りの布陣はなされないまま先に小早川秀秋離反の動きがあり、大谷隊陣所へと西軍が動いたところを小早川・朽木・小川・脇坂・赤座隊に挟撃され流動的に短時間で関ヶ原合戦は終了したのではないか。

この解釈から考えると、江戸時代後期に軍記物を手本として描かれた各武将が勇ましく戦場を飾る関ヶ原合戦図屏風のような場面は存在しないということになります。
果たしてこれはどういうことか。

ここで、関ヶ原合戦図屏風の中で唯一〝合戦直後〟に描かれたと伝わる津軽屏風の構成を確認してみましょう。
右隻・赤坂:東軍陣営、大垣城:西軍陣営
左隻・敗走する西軍兵
なぜか合戦ど真ん中の描写がなく、また弘前藩の史料『藤田氏旧記』によるとかつては八曲二双あったとも伝わるため、失われた一双がありそこに合戦場面があったのではないかという説もあります。(元々八曲一双、という説も当然あります)
が!
著者の説の通りの展開であっさり合戦が終わったとすると津軽屏風八曲一双の構成で関ヶ原合戦図は全て語られたことになり、幻の一双がなくともなんの不自然さもないということになります。

私たちがドラマや小説でよく目にしている関ヶ原合戦は逸話や伝説が後世に付されたものとすると〝合戦直後〟に描かれた屏風の構成が納得いくものとなる。

 

いやぁどうしよう。
諸説あります。史料の解釈によって様々な捉え方があるのは充分理解していますが、こう気持ちよくカチッとハマると唸らざるを得ない。

知れば知るほど歴史って面白いですよね。

「合戦図屏風」の始まり

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オクで入手しました。

会期:1979年とのことでもう37年も前の古い図録です。中をみますとほとんど白黒の図版でカラーは数枚。時代を感じます。

が!この特別展が今日の〝合戦図屏風〟の研究の始まりとなるもの。古典的な源平合戦とは区別された『戦国合戦図屏風』だけを集めた初めての展覧会。大変貴重な資料です。まさか手に入ると思わなかった。毎日オクの覗くのが日課となっているたまものですね。

現在、重文となっている関ヶ原合戦図屏風(津軽本)が「大阪・個人蔵」と記されているところがすごいです。津軽ではなく大阪、しかも個人宅にあったっていうのはどういうことなんだろう。犬山城の成瀬家では蔵の中から長篠合戦図屏風が出てきましたが、蔵を持っているような旧家には戦禍をくぐり抜けた古い時代の屏風がまだまだ眠っているかもしれません。

 

『戦国のゲルニカ「大坂夏の陣図屏風」読み解き』を読みました

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重要文化財大坂夏の陣図屏風』は歴史の大きな境目となる大合戦の「大坂夏の陣」を描いた六曲一双の大きめな屏風です。黒田家伝来の為、通称「黒田屏風」と言われています。

合戦図屏風で「重要文化財」指定されているのは、この『大坂夏の陣図屏風』と『関ヶ原合戦図屏風』の津軽本の2点だけで、共に製作時期が合戦直後であり、歴史的にも美術的にも価値が高いと言われています。

大坂夏の陣図屏風』は右隻に合戦に参戦した武将達と合戦の様子、左隻には逃げ惑う庶民や敗走兵を襲う徳川軍の様子が描かれています。合戦〝大坂夏の陣〟が語られるとき取り上げられるのは右隻であり、第六扇に描かれた大坂城めざし金雲の間にひしめき合う徳川軍とそれを迎え撃つ豊臣軍がメインとなります。しかし、この本で中心となり解説されているのは左隻に描かれている非戦闘員である一般庶民の悲惨な戦災の状況です。これが「戦国のゲルニカ」と言われる由縁となります。

本の中では、合戦の中心と離れた場所で発生していたその凄惨な描写が細かく解説されています。

他の江戸時代後期に量産された合戦図屏風が「祖先の勇姿を晴れ晴れしく表す」ことを目的とされていたことに対し、この『大坂夏の陣図屏風』は勝者である徳川家を讃えるものでも滅亡した豊臣家への哀悼でもなく城下の人々全てが巻き込まれたリアルな合戦のようすです。

この屏風の制作者(一説では黒田長政)はいかなる理由でこのような悲惨な合戦の状況を屏風という形で描き残したのか、400年も遡ってその心情を知ることは難しいことではありますが、両軍合わせて30万人、さらに罪のない大坂城下の市民30万人が巻き込まれた大決戦を冷静に後世に伝えることが務めと考えたのかもしれません。

敗戦した豊臣側ではなく徳川方がこの屏風を作ったということが感慨深いところであります。

大坂夏の陣図屏風を深く知りたいと思われましたらオススメの一冊です。

 

 

 

『神仏・異類・人 ー奈良絵本・絵巻にみる怪異ー』展へ行って来ました

 

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國學院大學博物館は初めて行きましたが、広くて展示品も見やすく入場無料でいいのかしら?という充実した博物館でありました。

 今回は企画展の方を目当てです。妖怪・怪異系の日本画はこれも芸術どうこういうものではなく楽しむべきと思うのです。

 企画展の趣旨です。

 日本には、ふるくから不思議な物語があります。たとえば、かぐや姫が月にのぼる物語、大むかでや鬼といった化け物を退治する物語、ねずみが人間のように生活刷る物語などです。
 これらの物語では、人間だけではなく、神仏や鬼・妖怪などの異類も、さまざまな思いを抱えながら感情豊かに、また魅力的に活躍します。
 こうした不思議な物語の多くは、諸町時代後期から江戸時代中期にかけて制作された彩色入りの写本[奈良絵本]に仕立てられました。その絵は、素朴で淡い色彩のものから、金銀などが使用された豪華絢爛なものまで種々さまざまで、現代に至るまで多くの人々の目を楽しませてきました。
 本展示では、現実にはあり得ない不思議なこと[怪異]を描いた奈良絵本・絵巻を通して、物語のおもしろさや魅力を紹介します。

 

展示数はそれほど多くありません。20点ちょっとですので、少々物足りなさは感じましたが、私以外に観覧者もなく ゆっくりと1品1品を眺めることができて思う存分怪異を堪能しました。展示品全部、国学院大学の所蔵とのこと。

そもそも『奈良絵本』ってなんなのだろう、と調べてみました。

室町時代後期から江戸時代前期頃まで製作されていた絵入り彩色写本を、「奈良絵本」と総称している。明治以来、書肆やコレクターの間で使用されてきた名称だが、由来ははっきりしない。奈良絵本は、時代により形態や描き方が異なる。桃山時代から江戸時代ごく初期頃のものは、縦30cm前後の大型の冊子で、巻物の名残が見られるものが多い。寛永から江戸時代前期頃に製作され、御伽草子おとぎぞうし類に題材をとったものは、横本の形態である。文字の書き手、絵の書き手、表紙を付して装訂する職人などの分業体制で作られ、「間似合まにあい」と呼ばれる料紙が用いられている。寛文・延宝頃(1661-81)には大名や富裕層を対象に、金泥銀泥などを使用して極彩色で緻密に描かれた豪華な絵本も製作された。奈良絵本は江戸時代中期以降は次第に姿を消す。今日、美術史、文学史の両面から研究されている。

 

奈良絵本・丹緑本 | 第三部 楽しむ ~絵入り本の様ざま~ | 国立国会図書館開館60周年記念貴重書展 学ぶ・集う・楽しむ 

 

奈良絵本楽しそうです。俄然興味が湧きました。

なお、年明けに後期展示となり展示品が多少変更されるので、また時間があればいってみたいと思います。

国学院大学史学関係が充実していますので、常設展は古墳時代から現代までの祭祀に関わる遺物や、埴輪・土器などがびっくるするほどたくさん展示されていました。

予期せず、屏風と出会うと合戦図屏風でなくとも思いっきり眺めてしまいます。今回拝見しましたのは『御田植・巫女舞図屏風』なるもの、いつ頃の制作なのか説明書きにはなかったのですが豊作祈願のようすでした。なかなかに立派な屏風で、人物がデフォルメされておらずきちんと描き込まれていたのが印象的でした。江戸時代だろうな、あれは(About過ぎ……)

 

妖怪は可愛いです。

 

追記

その時いただいたパンフレットが豪華。
図録がなくても無料でこんなに素敵なパンフ配付していただけるのは嬉しい。

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関ヶ原・敦賀の旅 その2

2日目

 おはようございます!とワンコと一緒に大垣駅前までお迎えにきていただく。至れり尽くせりの旅行で恐縮であります。

 

ということで2日目はいよいよ敦賀へ!大谷吉継さん関係の史跡を見学に向かいます。

 

まずは赤坂の安楽寺へ「家康が寄進した大谷吉継の梵鐘」を見学に。
安楽寺は家康が関ヶ原合戦の戦勝祈願をしたお寺とのことで、至る所に葵の家紋があります。

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しか〜し、鐘楼を眺めて地元の友達がはてなマークを飛ばしまくっている。
「ここに説明書きが立っていて、鐘もこれではなかったはず」

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確かに鐘楼も補修されています。

 

ここでわかったことは、数年前に新しい梵鐘と掛け替えられ家康が寄進した梵鐘は残念ながら基本非公開とのこと。

 

撤去されていた説明書きには

大谷吉継が陣中の兵士の士気を鼓舞したり、

合図用に播州兵庫県)から持参した陣鐘で、

戦後徳川家康が戦利として安楽寺に
寄進した
歴史的にも由縁のあるものです

と、書かれていたようです。

さて、車は杭瀬川を渡り、垂井で半兵衛さんと出会ったぁ。

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櫓門の中は学校で関係者以外立ち入り禁止です。現役で校門っていうのもなかなか凄い。

 

さらに半兵衛の菩提寺へと進みます。

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竹中半兵衛墓所。墓石は小さな御堂の中です。

 

さて、途中、姉川を超え小谷城祉や賤ヶ岳を眺めながら敦賀へと向かいます。紅葉のシーズンで賤ヶ岳がとても綺麗でした。山並みが屏風のまんまで感激です。

 

ところで、小谷城祉の入口「戦国ガイドステーション浅井三代の里」に〝真柄の大太刀模造刀〟が飾られていて、お触り自由だったので持ち上げてみました。
……持ち上がりません!!!
長さといい重さといい、とても実用性があるように思えず、真柄さん本当にこんな大太刀振り回していたのでしょうか。重さ4.5kgですよ。お米なら三人家族が半月食べられますよ。ちょっとびっくりでしたが、あれ太郎太刀だったんだな。赤い線が入ってました。

 

同行のわんこをモフりつつ、敦賀へ到着。まずは腹ごしらえと「日本海さかな街」へと向かいます。蟹、越前カニを食べたい。

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めっちゃこっち見てますが、お前がご飯になるんだよ!

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かに丸ごと丼! 美味しかったです!!

 

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旧銀行の建物を利用した「敦賀市立博物館」と併設された「みなとつるが山車会館」〝山車〟を〝だし〟と読んだら〝やま〟でした。〝やまかいかん〟です。

 

敦賀市立博物館には関ヶ原合戦屏風がありますが、今回展示はありませんでした。他の博物館に問い合わせた時も「何しろ古い日本画ですので保存が難しく常設で照明を当てておくことはできません」とのことでしたので、おそらくこちらも今年は「大 関ヶ原展」であちらこちら遠征してますから倉庫でお疲れ休み中と思われます。2度ほど生で拝ませていただいておりますので、今年はもう充分であります。

 

お隣の山車会館には常設で「大谷吉継コーナー」があり各種書状のコピーが展示されております。大谷吉継さんは出自も不明で、もしかして都市伝説なのではないか?と心配ではありましたが、展示されていた書状の署名の「大刑少」を見ると大谷吉継は伝説じゃなかった!と実感出来るわけです。

 

さらに実感する旅は続きます。

 

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永賞寺、大谷吉継菩提寺

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立派な供養塔であります。1609年とのこと関ヶ原合戦後すぐに建立されていますね。

 

続きまして、八幡神社へ向かいます。ここの猫が人懐っこくて可愛かった。

ここには敦賀城に使われていた石。

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奉納された大谷吉継像。

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結構工事中のお寺が多かったのは何かあるのでしょうかね。

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ここも思いっきり工事中でした。真願寺。敦賀城礎石があります。

 

来迎寺。敦賀城にあったとされる中門。

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ちょっと走ったところに西福寺。
すごく古いかなり大きなお寺で建物にも感嘆しましたが、お庭がまた素晴らしい。

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あれ?ここには何があったんだっけ?と確認したところ〝書状〟ああ、書状はきっと公開してないよね……と寺内拝観したあとに気がつきました。前回、観音寺を拝観したときはちょうど特別公開で石田正継や浅井長政の書状が拝見出来ましたが、あれは本当にたまたま運がよかっただけ。

 

ということでそろそろラストかな〜とぐるり回って敦賀湾を見渡せる、常宮神社へと向かいました。

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紅葉がめちゃくちゃ綺麗でした!写真のセンスがなくてもったいない。

 

ここには吉継が秀吉の命により奉納したと言われる朝鮮鐘(国宝)があるのですが……

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当分の間、非公開!!!鐘にご縁がありません。

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再び、山車会館へ戻り、

福井県・戦国歴旅カードコレクション【9月19日開始】|越前町オフィシャル観光ガイド えちぜんなび.com

これでカードを集めながら進んでいたわけですが最後の大谷吉継プラチナカードをちょっとチョンボでいただいて帰路へつきました。

 

東京在住ですので、福井なんて行くこともないだろうと思っていたのに思いがけずお声かけいただき、紅葉の季節、綺麗な山並みを眺めながらのワンコと一緒のドライブ。楽しかったです。案内していただいた某切り絵師さんには感謝感謝であります。

 

 

 

 

 

 

 

 

関ヶ原・敦賀の旅 その1

一日目

 世の中は連休で「よし行こう!」となった時にはすで彦根のホテルはどこも満室。さてどうしたものかと、相談したところ大垣に一泊することに。予約した新幹線よりも一本早いものに乗れそうだったのですが、そちらももう満席で変更も出来ず諦めて予定通りゆっくり出発となりました。

 

地元・岐阜にお住まいのお友達の案内でまずは米原から直行佐和山城祉。

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前回、龍澤寺までしか入らず佐和山登山を見送ったので今回は山頂まで行きたい!ということでお友達とワンコ2匹と私とで登山開始。大した登山じゃありません、わかっていますが私は日頃の運動不足とそこそこヤバイ年齢なもので途中から足が上がらなくなるわ、息が切れるわ、酸欠で目眩するわ、と見た目以上に結構ないっぱいいっぱいになる。わんことお友達(若い)はずんずん上がって行くので笑いながら必死に着いて行きました。

 

お約束の石田三成さん。

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佐和山城祉に辿り着いてみれば宮島の弥山よりは全然楽なはずなのですが、年々衰える身体に抗うことも出来ず……
お天気は晴天天晴れ!というほどではなかったので遠景がもやってます。

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ちょうど中央に霞んで見えるのが伊吹山。この形は!関ヶ原合戦図屏風の伊吹山と同じ形ですよ。描かれているのは関ヶ原側から見た山のはずなのですが、どこからどう見ても伊吹山

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下りは余裕だったのでやっぱり運動不足です。普段からもっと歩かなくてはいけないなぁと思うのはおそらくその場だけです。

 

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ぐるりと回り込んで、石田三成屋敷跡。

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史跡らしいものもなかったですが、確かな目印はしっかりと存在。

 

さらに、三成のお茶の井。

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案内してくださったお友達に「そこです」って教えてもらわなかったらわからない井戸跡。

 

爽やかなドライブ日和(助手席)ここから関ヶ原へと向かいます。

 

前回来たときは仮住まいで学校の校舎を背にしていた藤堂高虎京極高知陣が正式な場所へ移動しましたがやはり学校の敷地内。校門を入って右手にありました。

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 史跡は時々〝なんでそんなところに?〟って場所にあったりしますが、考えてみれば現代人が後からそこで生活を始めたわけですから向こうさんの方が〝そこ?〟なのですよね。

 

関ヶ原行くなら何度でも行っておかないとねと笹尾山へ移動。今回はごめんなさい、吉継さん。墓所までは行かれません。佐和山で体力使い果たしました……

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 笹尾山、左近陣。

 

三成陣から関ヶ原を望む。

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現場に立ってみると西軍総指揮取るには見晴らしもよく絶好のポジションですよね。

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さて、ここまで来たなら噂のアレを見なくては!と関ヶ原駅前観光交流館へと向かいます。

 

屏風好きとしてはなぜか外せなかった、自販機。

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これと関ヶ原町歴史民俗資料館のレンタル自転車置き場は屏風好きの心を揺さぶります。関ヶ原町所蔵の合戦図屏風は直政さんところの赤揃いのおかげで華やかでデザイン性もありグッズ展開が心憎いです。クリアフォルダとメガネ拭きを買って帰りました。

 

だんだん暮れてくる日と戦いながら次は垂井の恵瓊陣へと向かいました。前回は垂井まで回りきれなかったので南宮山は初めてとなります。

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関ヶ原町本でしたら第一扇の下部にあるこの鳥居。これが南宮山です。

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広家や秀元、恵瓊さんは描かれていないのですが、南宮山の鳥居だけはあります。

 

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南宮神社、歴史ある立派な神社でありました。

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かなり日も暮れてきたし、ハイキングコース片道1時間かかるし、佐和山でエネルギー使い切っちゃったし、でさすがに山頂の秀元陣までは行かれませんということで、南宮神社奥にあります安国寺恵瓊陣だけ確認してきました。

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 恵瓊さんは、大河・軍師官兵衛でぐっと来るものがありました。力が物言う戦国時代に外交僧として交渉の場に立ち駆け引き、豊臣時代には僧でありながら大名となり関ヶ原後斬首というのは他の戦国武将にはない立ち位置で興味深い物があります。これだから歴史調べるのはやめられない。

 

途中、広家の陣を眺めつつ(よそ様のお家が映り込んでしまってちょっと上げられません)宿の大垣へと向かいました。

 

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2日目は垂井から敦賀へ向かいます。