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金雲のすき間

合戦図屏風より愛を込めて

小田原城・石垣山一夜城の旅

時はGW、晴天の下、友と二人小田原へと出陣いたしました。

小田原城が平成の大改修によろリニューアルしたとのこと、展示品も含めここは是非是非拝観しておきたいとこだまに飛び乗り小田原へ。

小田原城小田原駅から徒歩10分、都内への通勤も可という好物件。総構えは二の丸までしか残っていませんが、立派なお堀に囲まれた改修済みの真っ白天守閣は青空に映えて見事でありました。

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GWだけあって天守閣は入場制限もあり入口に大行列が出来ていました。展示品もなかなかよかったですが、観光の皆様の目的は天守からの小田原市街を一望する絶景。しかしそれも流れ作業のように立ち止まることを許されない混雑振りでなかなかに過酷。

本丸の門も再建されたもので古いものではありませんが、いくつかありました。


常磐木門』

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本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく眷顧に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことがわかる。
 元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡り櫓から構成される枡形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。
 現在の常磐木門は、市制30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に再建したもので、門の傍らには往時からの松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常磐木門と名付けられたといわれている。(説明書きより)

 

『銅門(あかがねもん)』

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 銅門は、櫓門・内仕切門・石垣・土塁からなる枡形形式の門です。この門は江戸時代初期の寛永10年(1632)ごろに稲葉氏によって最初に造られたと考えられますが、その後震災などを受け、何度か建替・修復されてきました。宝永2年(1705)ごろに造られた銅門は明治維新の廃城により解体されましたが、絵図面や古写真、発掘調査などの資料を基に、文化庁の指導を得て平成9年(1997)に復原されました。
 この門は、大手門から住吉橋を渡り二の丸御屋形(御殿)や本丸へと通じる、大手筋に設けられ、小田原城の中でも最も重要な門の一つでした。扉の飾り金具に銅が用いられていたことからこの名の由来があると考えられます。(説明書きより)

銅門は内部を公開中で、石落としなどを見学できました。

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檜の匂いが爽やかな内部。

『馬出門』

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馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文12年(1672)に枡形形式に改修され、江戸時代末期まで存続しました。
 石垣と土塀で四角く囲んだ枡形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木門から成ります。(説明書きより)

 小田原城は復原された建造物が多く綺麗に整備されていましたが、本丸裏側辺りにある発掘調査中の『御用米曲輪』(江戸時代に幕府の米蔵があった場所)は、戦国時代の建物や池・庭園などの跡等がみつかりまだまだこれから発見されるものも多くありそうです。

 

巨大な総構えの小田原城は街中あちらこちらに遺構が残っています。地図を片手に見て回るのも面白いかと思いますが、たとえば……

『幸田口門跡』
郵便局等の建物に囲まれた裏側に土塁が残っていたりします。

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この土塁は、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。当時は、本丸・二の丸を包むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸としていました。この土塁は、三の丸の土塁が残されている数少ない場所の一つです。
 この場所の西側に幸田門という三の丸の入口がありました。その跡の一部が発掘調査で見つかっています。
 戦国時代に上杉謙信武田信玄小田原城を攻めた時にはこの幸田門から小田原城を攻めたと考えられています。北条氏康・氏政父子は籠城策を用いてこれを退け、小田原を守り抜きました。(説明書きより)

 

 三の丸がところどころに遺構を残す程度の存在となってしまっているので、大手門は地名に名を残すのみとなっているようですが一つだけ史跡がありました。

『大手門跡』

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 この場所は、江戸時代の小田原城の大手門があったところです。
 この門を入ると西側一帯は三の丸となり、道の両側に小田原半の家老級の屋敷が並んでおりました。
 それまで箱根口付近にあった大手門を、稲葉氏が城主であった寛永十年(1633)に、三代将軍徳川家光が京に上るのに備えて、江戸に向く現在地に移し、大手門前までの道は将軍家が小田原城に入るための、御成道として整備され、東の入口であった江戸口見附も、国道一号沿いの現在の位置に移されました。
 大手門の造りを元禄時代ごろの絵図で見ると、三の丸の堀に架かる土橋を渡ると、外からの攻撃や敵の侵入を防ぐための、馬出と呼ばれる空間があり、さらに冠木門と呼ばれる門から、枡形と呼ばれる四角い空間に入ります。この枡形は、櫓門や石垣、堀で囲われており、厳重で立派な門であったことがわかります。(説明書きより)

 

駅近くの飲み屋街の片隅に、北条氏政・氏照の墓所がありました。 

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鈴がたくさん下がっていて、鈴をたくさん掛ければ供養になると書かれているのですが、なぜ鈴なのかが今一つわからない……

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 北条氏政は、北条氏四代の領主。氏照は、氏政の弟で、八王子城など五つの支城の城主でした。
 天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、五代領主氏直は高野山に追放され、父氏政とその弟氏照は城下の田村安斎邸(現南町)で自刃しました。
 両人の遺体は、当時この地にあった北条氏の氏寺、伝心庵に埋葬されました。(現在、永久寺所有)
 その後、放置されていた墓所は、稲葉氏が城主の時(1633〜1685)北条氏追福のため整備されました。大正十二年(1923)の関東大震災では墓所が埋没する被害をうけましたが、翌年地元の有志により復元されました。  小田原市教育委員会

(説明書きより)

 説明書きを読んでも鈴の謂われが不明であります。

 

さて、もう一つの目的であります『石垣山一夜城』ここへは通常公共交通機関がないとのことでしたが、行楽シーズン限定の「小田原宿観光回遊バス」を利用すると小田原駅前から20分で行くことが出来ます。
ということで到着しました。

『一夜城歴史公園』

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豊臣秀吉が築城に当たり、山頂の林の中に堀や櫓の骨組みを造り、白紙を貼って白壁のように見せかけ、完成すると周囲の樹木を伐採し、それをみた小田原城の将兵が一夜のうちに城が素津現下と思ったという伝承から石垣山一夜城と呼ばれています。
 秀吉はこの城に淀殿や側近や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。
 この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、野面積といい、長期戦に備えた本格的な城造りであったと言えます。(パンフレットより)

 豊臣秀吉は後世にも名の残るたくさんの武将により小田原城を包囲しました。その際に小田原全体を見下ろせる笠懸山の山頂に城を築き、そこを本陣としました。
北条氏の兵力5万4千に対し、豊臣勢はそれを遙かに上回る22万。
小田原城包囲は天正十八年(1560)4月3日から始まり、およそ三ヶ月後7月に氏直は開城降伏し、北条氏は滅亡しました。

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小田原が眼下に一望出来る絶好のポジション。ここに秀吉は本陣を置いたいうことを実感出来る眺めであります。

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 整備された芝生の公園を囲むのは崩れた石垣という、兵どもが夢の跡。

f:id:ujikintoki_byoubu:20170508204441j:plain 道標の上にあるのが瓢簞で、とても太閤殿下。

 

途中、一夜城のオススメはここだよ、と地元の方に教えていただいたのが『井戸曲輪(淀殿の化粧井戸』

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淀殿も使ったと言われる化粧井戸。写真ではわかりにくいのですが、かなり深い。

 井戸曲輪は、石垣山一夜城二の丸(厩曲輪)北東側にあり、もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られている場所です。井戸は二の丸から215mも下がったところにあり、今でも湧き出る水を見ることができます。この井戸は「淀君化粧井戸」または「さざゑの井戸」とも呼ばれています。
 石垣山一夜城は、高い石垣で築かれた東国で最初の近世城郭です。石垣は、あまり加工されていない石を用いた野面積みで、築城に際して西国から穴太衆と呼ばれる石工集団が派遣されたことが文書に記されています。
 井戸曲輪の石垣は、石垣山一夜城の中でも特に当時の姿をよく留めている部分で、その石垣の特徴を知る上で貴重な遺構といえましょう。(説明書きより)

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古い石垣しか残っていない一夜城には小田原城とは違う良さがありました。

400年以上の時を経ても残るもの。

浪漫だと思います。

 

都内から新幹線で30分。

思いの外近い場所、小田原には浪漫がありました。

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『戦国時代展』へ行ってきました

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姉川合戦図屏風がお出迎えです。

『戦国時代展』は今回、東京会場・京都会場・米沢会場の3会場を巡回します。
会場ごとに展示品の入れ替えがありますし、同会場でも前期と後期で違う展示となりますので、いけるものなら全部行きたいですがそういうわけにもいかず……

さて東京会場の前期です。

目当ての屏風はまず『川中島合戦図屏風・米沢本』同じ構図の勝山城本は後期の展示となります。川中島合戦図屏風は、岩国本といわれるものが一番古く有名で、その次に発見されたのが紀州本。岩国本は武田軍側から軍記『甲陽軍鑑』を元に描かれており、一方紀州本は上杉軍側から軍記『北越軍記』を元に制作されていると言われています。今回展示されていた、米沢本はその両方の屏風を折衷したような構図で江戸時代後期に制作されたものです。岩国本と紀州本はどの会場で拝見出来るのでしょうか、東京会場での展示がないのが残念です。
今回の川中島合戦図屏風は右隻左隻並んだ状態で展示されていました。ありがたいです。長期の展示による傷みを防ぐ為、前後期で右隻左隻泣き別れが多いのですが、一双の屏風は並べて眺めると迫力が違います。合戦のダイナミックな構図を堪能するにはやはり左隻右隻同時の展示が一番だと思います。

今回は『姉川合戦図屏風』の展示もありました。現存する姉川合戦の屏風はこれ一隻だけです。大変貴重なものであります。また昨今流行りの刀剣好きな方にはお馴染みの太郎太刀を掲げる真柄直隆が屏風の中央付近に見られます。太刀の長さを実感出来る絵柄ではないでしょうか。

 

『戦国時代展』は、上杉・武田から織田信長時代までを中心とした展示品が並んでいました。特に上杉関係の書状が多く、また毛利・尼子関係や大内氏関係の展示も充実、昨年の大関ヶ原展以前の戦国時代を中心とした特別展という捉え方でしょう。

上杉博物館所蔵の国宝・洛中洛外図屏風は残念ながら東京会場では展示がありませんが、京都会場で是非見ていただきたい屏風です。私は米沢で舐めるように眺めてきましたが、織田信長から上杉謙信に贈られたという当時の権威の象徴のような金ぴかの屏風は圧巻です。

他に印象に残ったのが『芸州厳島御一戦之図』厳島合戦の動きが手に取るようにわかる絵画図でした。
また、毛利元就の三本の矢の逸話の元になったといわれる長〜〜〜〜い書状。文書が長いと言われる毛利元就らしいお手紙でした。

図録は最近流行りの分厚いハードカバー。持ち帰り用に+270円で、五虎退柄の小さいバッグもありました。

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後期や他の会場での展示品も全て掲載されていますので、今回見ることが出来なかったものも多く、また行かなくては!と思うものです。

 

日帰り大阪城! 〜櫓の内部公開見学他〜

10月の連休で大阪城へ出陣しました。

 

大阪歴史博物館

目的はこれ

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東京会場は既に制覇済でしたが、大阪限定の展示も多くせっかくなので大阪城天守閣へも行きたい!!!とワクワク出かけていきました。

が!大阪会場でも『大坂夏の陣図屏風』の展示は複製でした……f:id:ujikintoki_byoubu:20161025111804j:plain

なぜこんなにピンボケなのだろうかと思いつつ真田丸展の源次郎さんにさよならしつつ、大阪城へと向かいます。

たまたまこの日は真田丸のイベントと重なっていましたので、おそらく通常よりも人出もあったのかと思われます。

 

大阪城

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大阪城初めて行きましたが、噂に聞いた高い石垣(高虎さんすごい)。これはおいそれと登れない。現在の大阪城は豊臣の築いたものではなく徳川が「秀吉のより大きくて立派なのにしてね」と頑張ったものなのでその大きさ広さは類を見ないもの。

 

 

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何より諸大名がこぞって供出した石垣用の石の大きさがハンパないです。大きさ比較に誰かに手前に立ってもらえばよかったです。

大手口枡形の巨石

 枡形とは城の重要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の鍼灸を食い止める役目を果たした。築城技術の進歩にともなって強固な石造りのものがあらわれ、大阪城の大手口枡形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をくぐって正面に位置する大手見付石【おおてみつけいし】は、表面積が焼く29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、左の大手二番石【おおてにばんいし】は約23畳敷(37.90平方メートル)で第5位、右の大手三番石【おおてさんばんいし】約22畳敷(35.8平方メートル)で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島【しょうどしま】と推定されている。現存する大阪城の遺構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620)から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠広【かとうただひろ】が築き、のちに筑後久留米藩有馬豊氏【ありまとようじ】が改築した。

当日は櫓が一般公開されており、『多聞櫓』『千貫櫓』『焔硝蔵』の内部を見学することができました。
(立て看板より)

 

 この巨石の左手にあるのが『多門櫓』

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 重要文化財・多門櫓

 大手口枡形【ますがた】の石垣の上に建つ櫓で、大門【おおもん】の上をまたぐ渡櫓【わたりやぐら】と、その右側に直角に折れて接続する続櫓【つづきやぐら】によって構成される。徳川幕府による大坂城再築工事により寛永5年(1628)に創建されたが、天明3年(1783)の落雷によって全焼し、嘉永元年(1848)に再建された。土塀や石垣上に築かれた長屋状の建物を一般に多聞(多門)と呼ぶが、その名称は戦国時代の武将松永久秀【まつながひさひで】が大和国(今の奈良県)の多聞城でこうした形式の櫓を初めて築いたことに由来するといわれる。現存する多聞櫓の中でもこの多聞櫓は最大規模で、高さは約14.7メートル、建築総面積は約710.25平方メートルある。渡櫓内部には70畳敷を最大とする部屋が4室、続櫓内部には廊下の他に9畳・12畳・15畳の部屋が計6室あって多数の兵や武器をたくわえることができ、枡形の内側に多くの窓があり、また大門をくぐる敵を真上から攻撃する「槍落とし」の装置が設けられるなど、高い防御能力を備えている。大阪城の二の丸には京橋口・玉造口にも多聞櫓があったが、現存するのはここだけである。

(立て看板より)

 

 

ということで多聞櫓内部の見学へと進みました。

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先ほどの門のちょうど真上あたり。ここを通行しようとする敵に槍を落としたという『槍落とし』です。

 

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重要文化財・千貫櫓 

 西の丸庭園の西南隅に建つ二層の隅櫓で、大坂城の正門・大手門を側面から防御する重要な位置を占める。多聞櫓とは土塀で連結している。
 千貫の名称は、その昔この地にあった石山本願寺織田信長が攻めたとき、この付近にあった櫓が難攻不落で「あの櫓を落とした者には千貫文与えても惜しくはない」と離していたことからその櫓を千貫櫓と呼ぶようになり、その後も大手の守りのかなめとなる重要なこの付近の櫓にその名が引き継がれたとされている。
 徳川幕府大阪城再築初期の元和6年(1620)に桂離宮などの設計で知られる小堀遠州によって創建された。昭和36年の解体修理のときに「元和六年九月十三日御柱立つ」の黒書の板が土台から発見され、創建年月日が明確になった。城内では乾櫓とともに最も古い物である。
 内部は一、二階とも武者走りと呼ばれる回廊がとりまき、その内側に4室ずつ天井板張部屋がある。一階の面積は約199平方メートル、二階は約143.32平方メートル。
 一階、二階とも武者走りには大手門と外堀対岸に向かって隠し銃眼が、また一階には石垣をよじ登ってくる敵に対する石落としの装置が見られる。
 なお、二階武者走りに格子ぶたの荷揚げ装置がみられるが、創建時から設置されたものか明治以降、軍部によって付けられたものか定かではない。
(内部説明板)

 

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千貫櫓は出口付近のこのレリーフが印象的でしたが、これはいったいなになのか? 

 

二の丸公園で真田丸イベントの準備を眺めつつ、六文銭たこ焼きをいただきました。

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内部見学三つ目。

重要文化財・焔硝蔵

 徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685)に建造されたもの。焔硝蔵はそれ以前にも城内数カ所にあったが、青屋口にあった土蔵造りの焔硝蔵は万治3年(1660)に落雷を受けて大爆発を起こし、また別の場所にあった半地下式の焔硝蔵も部材の腐食による建て直しがたびたびされるなど、幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していた。そうした課題を克服すべく、この焔硝蔵では耐火・耐久・防水に特に工夫がこらされ、床・壁・天井・梁【はり】をすべて花崗岩【かこうがん】とし、石壁の厚さは約2.4メートル、屋根の下は土で固められている。面積は約171.9平方メートル、高さは約5.4メートルで、こうした石造りの火薬庫はわが国では他に例がない。徳川時代大坂城には、西日本における幕府の軍事拠点として、焔硝の他にも大量の兵糧や武器武具が備蓄されていた。
(立て看板より)

 

 内部がなかなかにお洒落でした。

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外側

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かなり頑丈そうな火薬庫であります。

墨絵ライブを横目にみつつ、天守閣へと向かいます。

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あと鷹匠さんがいらっしゃいました!

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天守閣の下あたりにあった残念石。

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城内、城下、いろいろなところに石垣に使ってもらえなかった残念な石が放置されているらしくそれを探して歩くのもまた楽しそうであります。

 

さて、大阪城天守閣ではこの展示。
『特別展 真田幸村の生涯を彩った人たち』これがなかなかに充実した展示でした。

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なにより、どこへ行っても「複製」だった『大坂夏の陣図屏風』の原本がここに展示されていたのです。所蔵されている場所での展示、当然と言えば当然。そしてここには、その大坂夏の陣図屏風右隻の中央に描かれている真田隊と松平隊の激戦がミニチュアで立体的に再現されています。写真を撮ってもよかったと後で知ったので惜しいかなそのミニチュアの写真がありませんが、大阪城天守閣へ行くことがありましたら是非ご覧いただきたいです。大坂夏の陣図屏風の驚きの再現率!

さて、せっかく偶然ながらも真田丸イベントにかち合いましたので、真田昌幸こと草刈りさんのトークを見てから帰りましょうかと二の丸よりはちょっと遠い天守閣近くから見学させていただきました。

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スマホではこれが限界。でもお声はしっかり聞こえました。
では、おのおの抜かりなく」

さて、日も暮れて帰路につこうと桜門を出るとあるのが豊国神社。

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月下に佇む秀吉様のその陣羽織は、まさしく大河で見たアレですね!

 

ということで、大阪でもまた屏風を追いかけて充実した一日となりました。
合戦図屏風はいいぞ!

 

岐阜・大垣・長浜・竹生島、屏風の旅 その2

2日目

あいにくのお天気でしたが、強くならないことを祈りつつまずは大垣城へと向かいました。

 

大垣城

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大阪城天守閣所蔵の通称津軽屏風と呼ばれる「関ヶ原合戦図屏風」に描かれている、石田三成が西軍の本拠とした大垣城です。

大垣城の内部が資料館となっていますが、そこに「関ヶ原合戦図屏風」を立体化したジオラマがあります。これが見たかった!

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赤坂岡山の東軍陣です。

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屏風だとこの辺り。

 

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西軍本陣の大垣城

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角度が違いますが、屏風ならここです。本丸と二の丸の間の橋にいるぶち犬まで再現されています。

 

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杭瀬川の戦いのあたりですね。

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ジオラマ楽しいです!

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大垣城の由来

 大垣城は、天文4年(1535)宮川安定が築城した(明応9年(1500)竹腰尚綱の築城とも伝えられる)といい、水門川の流れを外堀に利用して造られた規模の小さな城であった。その後城郭の増築が行われ、天守は慶長元年伊藤祐盛によって造営され、元和6年に松平忠良により改築されたという。この天守は、四層四階建て総塗りごめ様式で、たいへん優美な城として名高く、歴史の上からも重要な役目を果たしました。昭和11年には国公に指定され、郷土博物館として親しまれてきたが、昭和20年7月29日繊細で惜しくも焼失した。その後、大垣城再建の気運が高まり、昭和34年、現在の天守が完成した。さらに平成23年には、天守と乾隅櫓を繊細前の外観に近づける改修を行った。

(パンフレットより)

関ヶ原合戦図屏風の大垣城は三層ですが、四層となったのは松平忠良により改築された後とのこと。屏風は古くに描かれたものということがよくわかるわけです。 

 

このあと、関ヶ原を進軍通過し長浜へと向かいます。

 

長浜

長浜と言えば駅前の秀吉様と佐吉君。三献茶の像。

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ここ、毎回思うのですが、背景もうちょっとなんとかならないのですかね。せっかくの撮影ポイントなのに残念です。工事が終わったらもうちょっとなんとかなるのかしら。

 

さて、長浜では黒壁スクエアで近江牛を堪能。二日続けておいしい牛肉。

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長浜の豊国神社。

祀られているのは、豊臣秀吉加藤清正と恵比寿様。あくまで恵比寿様です。

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「虎石」

秀吉が築城した長浜城の庭園に置かれた「虎石(虎が伏しているように見えることから)」を秀吉は大変気に入っていたのですが、長浜城が廃城となった後、庭石は大通寺へ移されました。しかし庭石は夜毎に「いのう(帰ろう)、いのう」と泣いて訴えたことから元々長浜城のあった敷地に戻し、その後、現在の地である秀吉が祀られた豊国神社へと移されたということです。

他の説では、虎之助(加藤清正)が寄進した庭石なので「虎石」と呼ばれたというものもあるようです。

 

琵琶湖湖畔にある長浜城は、昭和58年に再興され内部は長浜城歴史博物館となっています。

 

竹生島

今回の旅行のメインイベント琵琶湖の竹生島へと向かいます。

竹生島宝厳寺の唐門は豊臣時代の大坂城北側にあった極楽橋を移築したものと言われています。極楽橋は金を用いた鮮やかな色彩と「鳥や樹木など種々の彫刻」で装飾されていたといわれています。その華やかさは「豊臣期大坂図屏風」に描かれています。

実物が見られるならば!と片道30分の船旅で竹生島へ向かいました。

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竹生島竹生島神社とその奥に宝厳寺、港にお土産屋さんが数軒あるだけの小さな島です。

港から長い階段を上ると宝厳寺があります。

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さらに登ったところに、真田丸での胃痛キャラがすっかり板に付いた片桐且元さんお手植えのモチノキがありました。

 

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さて、そこを下ったところにあるはずの『国宝・唐門』を……

 

はっ!!!

 

 

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改修中!!!

 

事前に調べておかなかった私も悪いのですが、なんということでしょう……ここまで来てこれは脱力です。

辛うじて、扉の部分だけは直接見ることが出来ました。おそらく完成当時は極彩色だったのだろうと思われる赤や緑の彩色が微かに残っているみごとなレリーフ

 

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あまりの動揺にピンボケであります。

wikiからお借りしてきた在りし日の『国宝・宝厳寺唐門』

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かなり傷んでいるのが素人目にもわかるので改修いたしかたない……2年後には移築当時の豪奢な門が再現されるものと思われます。

国宝・宝厳寺唐門

慶長7・8年(1602・3)豊臣秀吉の子秀頼によって、京都豊国廟(秀吉の亡きがらを葬った廟所)の建造物を竹生島に移築するかたちで、当時荒廃していた竹生島の伽藍整備が行われました。この時、豊国廟の極楽門が移築され現在の宝厳寺唐門になったといいます。豪華絢爛と評される桃山様式の建造物の特徴がよく表れており、破風板内部の正面中央には大型の蟇股が置かれ、その内部は牡丹の彫刻で埋められています。蟇股の外部や脇羽目なども多彩な彫刻で埋め尽くされ、極彩色で飾られています。現在は、長年の風雨によりその鮮やかな色もずいぶん褪せていますが、建立当初は、黒漆塗りの躯体と、赤・黄・緑などの極彩色とが鮮やかなコントラストで映えていたことでしょう。

さて、この唐門は京都から移築されてきたものですが、実は、その前に一度移築を経験しています。このことが最近のある大発見によってクローズアップされてきました。2006年、オーストリアのエッゲンベルグ城に飾られていた壁画が、豊臣時代の大坂を描いた屏風絵であったということが判明したのです。そこには大坂城の本丸と二の丸の間にかかる屋根や望楼を持つ豪華な橋・極楽橋が描かれていたのです。この橋は、慶長元年(1596)に建造され、慶長5年(1600)に京都の豊国廟へ移築され極楽門として設置されたことが分かっています。さらに、慶長7年(1602)に竹生島に移築され現在に残っているというわけです。江戸時代の初期に徳川家によって破却された豊臣時代の大坂城の一部が唯一、竹生島に現存しているのです。秀吉が、初めて城持ちの大名となった地である長浜に、栄華を極めた秀吉の象徴ともいえる大坂城の遺構が唯一残っていることは、深い因縁を感じさせます。

(現地・立て看板より)

 

 

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こちらがエッゲンベルグ城にある『豊臣期大坂城図』に描かれた極楽橋。大坂城の北側という裏側の位置であったのは、秀吉が構想した京街道に面する橋であり、後陽成天皇大坂城行幸を考えての造営だったのではないかと言われています。

 

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NHKがCGで再現した、大坂城極楽橋。(立て看、なぜ正面から撮らなかったのか……)なるほど、天皇を迎える為の橋と納得出来る造りです。

 

なにはともあれ、平成30年に完成とのこと、また2年後に行かなくていけませんね。

 

ということで、相変わらず短期間強行軍の1泊2日戦国期の屏風を堪能する旅となりました。

まだまだ見たい屏風がたくさんあります!

 

 

岐阜・大垣・長浜・竹生島、屏風の旅 その1

1日目

 

岐阜市歴史博物館所蔵の『関ヶ原合戦図屏風』の実物を見たことがありません。他の関ヶ原合戦図屏風は実物をみているので、とても見たいです岐阜の屏風。

と、いうことでこの連休は岐阜から滋賀への一泊旅行をしてきました。今回も地元大垣民であるお友達のご案内です。いつもありがとうございます!

 

岐阜公園の近くを流れているのは鵜飼いで有名な長良川。観覧船の造船所がありました。

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黒板塀が渋いです。

 

岐阜市歴史博物館

ポケモントレーナーで賑わう公園を抜けて

向かいますのは『岐阜市歴史博物館』目的はこれ。

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今回の目当ても当然の様に「合戦図屏風」であります。

しかし、事前に「展示品リスト」を確認したところ、岐阜市歴史博物館所蔵の『関ヶ原合戦図屏風』の名前がない……どこかでなにか見間違えたのか、でもでももしかしたら常設展にあるかもしれないし、他の合戦図屏風も見たいのでなにも問題はない!いざ出陣!

 

徳川美術館所蔵の品々がメインの展示となるので、長篠合戦図屏風と長久手合戦図屏風がお出迎えです。ありがたや。

長篠合戦図屏風と長久手合戦図屏風は一双として制作されているものが多く、そのほとんどが江戸時代初期に描かれた成瀬家本を原本として写本・派生が制作されたものです。
徳川美術館所蔵の尾張徳川家伝来の両屏風も江戸時代後期に成瀬家本を元に制作されていますが、成瀬の姿は省略された写本です。他の合戦図屏風でも見られますが、先祖の活躍を強調するなど一部改変されることはよくあることです。合戦図屏風は〝当家のご先祖が武将として活躍した姿を華々しく後世に伝える〟という重要な役目を担っています。

 岐阜市歴史博物館所蔵の賤ヶ岳合戦図屏風は江戸時代初期に描かれ、他の〝軍記物〟に基づいて描かれた屏風よりも古いものです。残念ながら見学出来たのは七本槍の描かれた右隻ではなく左隻でしたが、馬印や旗印は後々参考にされることが多いほどはっきりとわかりやすく実物が見られてよかったです。

大坂夏の陣図屏風も岐阜市歴史博物館所蔵のものですがこれも見たかった屏風の一つです。大坂夏の陣図屏風といえばすぐ思い出されるのが、大阪城天守閣所蔵の戦国のゲルニカと呼ばれている一双でありますが、この岐阜市所蔵のものも充分にスペクタクルであります。ベースは軍記物と思われます。青々としたすやり霞を挟んで徳川軍を迎えうつ豊臣側の真田信繁六文銭の旗印が勇ましいです。翻る旗印・馬印、この躍動感は同じく岐阜市歴史博物館所蔵の関ヶ原合戦図屏風に通じるものがあります。

関ヶ原合戦図屏風の実物でまだ見たことがないのは岐阜市歴史博物館所蔵のものだけなのです。すごく見たい……

 

岐阜市歴史博物館は岐阜公園の中にありますが、そこからロープウェイに乗った金華山の山頂に岐阜城があります。

 

織田信長居館跡

見上げると山頂にお城が見えます。その麓に現在発掘調査中の織田信長居館跡がありました。

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通路の両側や土塁状遺構の側面には板状の巨石は立てて並べられている。

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遺跡のあらまし

 永禄10年(1567)織田信長は、稲葉山城主・斉藤龍興を追放して、「岐阜」の名を採用、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点としました。金華山の西麓には人工的な2〜3段の棚状の地形があって、最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下といいます。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で壮麗なものとして紹介した信長の居館の跡といわれています。
 昭和59年から行われた発掘調査で、両側に板状の巨石を立てて並べ、千畳敷下から千畳敷へと折れ曲がりながら上がっていく通路をはじめとして、その途中や周囲に配置された土塁状遺構・石垣・階段状遺構・水路などが発見されました。岐阜城は、信長が近江の安土へ移った後、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前哨戦で落城するまで続きますが、これらの遺構の多くはその出土品から信長時代にその基本的な形が出来上がったと考えられます。
 発掘調査では、これらの遺構の下にさらに古い時代の遺構群があることが確認されています。石垣・石積施設・階段状遺構などで、これらを埋めて作られた通路など上層の遺構が信長によるものとすれば、稲葉山城に係る斎藤氏時代の可能性が高いといわれています。また数枚の整地した土層が上下に重なっていることが確認されていますが、この中にはいくつかの焼土の面が含まれており、施設の焼亡を挟んで複数の城主による土地の造成が行われていたことが想像されます。
 壮麗豪華な4階建てといわれる信長居館の建築そのものはまだ確認されていませんが。しかし中世から近世への過渡期の在り方を探る上で極めて重要な遺跡であり、このため今回整備工事を行い、将来にわたって保存されることになりました。
(パンフレットより)

 

 

 

岐阜城 

ロープウェイを降り、少しばかり登るとそこにあるのが岐阜城です。濃尾平野を眼下に望む素晴らしいロケーション。これなら天下も丸見えですね!と実感出来ます。

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信長公・道三公ゆかりの城

 岐阜城はかつて稲葉山城と称していました。金華山頂にはじめて砦を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂山城守行政と伝えられています。戦国時代には、斎藤道三の居城でもあったところです。徳に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄十年(1567年)(一説には永禄七年)八月、不世出の英傑織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてからでした。しあし、慶長五年(1600年)八月、関ヶ原合戦の前哨戦の際信長の孫秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城しました。翌慶長六年、岐阜城は廃墟となり天守閣、櫓等は加納城に移されました。現在の城は昭和三十一年七月、岐阜城再建期成同盟によって復興されたもので、鉄筋コンクリート造り、三層四階構造で述べ451.77㎡、棟高17.7mの威容を誇ります。城内は一階「武具の間」、二階「城主の間」、三階「信長公の間」となっており、最上階の「望楼の間」は展望台として多くの人に親しまれています。
 平成二十三年二月七日、金華山一帯が「岐阜城跡」として、国の史跡に指定されました。

(パンフレットより)

 城下を一望する夜景はきっと素晴らしいものと思われます。

 

 夜は某番組でヤマコーさんが歩いた養老の焼肉街道へ向かい、飛騨牛の内臓までこりこり新鮮な焼肉を堪能しました。

飛騨牛おいしかった!

 

2日目に続きます〜

『大妖怪展』へ行って来ました

若冲展の前売りを無駄にして以来、心折れたままBlogが放置になっていました。が!江戸東京博物館の『大妖怪展』は予てから楽しみにしていましたので、夏休みに入ってしまうと子供が増えて行列が出来る可能性も無きにしも非ず……ということでぎりぎり20日の午前中に出陣したわけです。

しかし!

その日は、若冲展のカオス日となった〝第3水曜日はシルバーデイ〟だったということに気がついたのは江戸博に到着してからのことでした。

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若冲展が異常であっただけで、大妖怪展はびっくりするようなこともなく無事に入場。江戸博の特別展スペースはそれほど広くもないのでそこそこに混み合ってはいましたが、間を縫ってゆっくりと鑑賞することが出来ました。

音声ガイドは井上和彦さん。アニメ夏目友人帳でニャンコ先生の中の人なので、なるほど納得の人選。声のお仕事をなさってる方のガイドは大変聞きやすいです。

掛け軸や絵巻に描かれた妖怪はユーモラスでありおどろおどろしさは感じられません。毎回、日本画の展示を見た後同じ感想になるのですが、西洋絵画は写実を良しとしよりリアルを目指して描かれているものが多いですが、日本画は二次元に特化しそのデザイン性は現代の漫画に通じる楽しさがあります。『大妖怪展』はその辺りが最大限に楽しめる企画だと思います。

幽霊画や怪談の浮世絵は他の展覧会で見たことのあるものも多かったですが、今回面白いと思ったのが《針聞書》。

針聞書
鍼灸師のための口伝集。様々な病の原因となる虫を名付け図鑑化したもの。妖怪というのも編だが、病は体の非日常であり、その原因の虫の形は妖怪じみている。自然現象の不可思議の原因を妖怪に求める視線がついに体内に向けられた。描かれた虫たちは恐ろしい病状を生ずるのだが、なかなか愛嬌があって憎めないものたちだ。(図録より)

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蟲師かな?

 

お子様がジバニャン目当てで行くとちょっとガッカリするかもしれませんが、百鬼夜行絵巻や六道絵、錦絵、版本、幽霊画、妖怪好きだけでなく日本画好きな方にはオススメの展示でした。

最近の特別展の図録はとても凝ってるものが多いですね〜

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『2016年大河ドラマ特別展 真田丸』へ行って来ました

5月11日のこと

今月は『若冲展』の前売りも買ってあったので、当然ここは先に終了してしまう『若冲展』を優先すべきだな、と上野へ向かいました。

Twitterで散々流れていたのでわかってはいたのですが、んなこと言ったって並べば何とかなるでしょ。120分並んで中に入ってからさらに1時間待たされたあげくに流し見で立ち止まることも出来なかった鳥獣戯画展よりずっとマシなはず。

GW中よりは空いてるんじゃないかな〜

 

と、思っていたことが私にもありました。

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3時間20分待ち……

 

ちょっとさすがに無理だわ。と諦めて両国へ移動。

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並ばずに入れる『真田丸展』!

 

最近はどこの美術館・博物館へ行っても必ず〝音声ガイド〟をお借りするのですが、この『真田丸展』の音声ガイドは真田昌幸役の草刈正雄さん! 冒頭、いきなり大河OPに心躍ります。

歴史を追う形で真田家の展示は進みます。
昨年の大関ヶ原展で見た、昌幸の登り梯子の鎧はありませんでしたが、旗指物や馬印が胸アツであります。

信繁の頭形兜を見ると、意外に頭小さい人だったのかもと思いました。

 

川中島合戦図屏風は右隻だけ。岩国美術館所蔵のかなり有名な、あの真っ直ぐ整列した布陣の屏風ですね。舐めるように眺めてまいりました。

あとは、今年も会えたね!関ヶ原合戦図屏風(津軽本)右隻。

どちらも八曲一双の大迫力ですが、左隻の展示がありません。せっかく一双の屏風ですから並んでいるところを見たかったです。文化財保護の観点から長期の展示は出来ないということで入れ替えせいとのこと。ここに限らず、屏風の展示は左隻右隻どちらかということろが多いです。屏風好きとしてはちょっと寂しい。

大坂夏の陣図屏風は複製品の展示でした。真田の展示だし、大坂夏の陣図屏風は原本が見られたらいいな〜という淡い期待を持っていたのですが、こちらも残念。複製でも六曲一双揃っていたので、しっかり近くで見てきましたがやはり所詮は複製。筆跡や絵の具の厚み、古ぼけて読みづらくなっている付箋、表装の痛みぐあいなどの生々しさには欠けます。やっぱり、原本が見たい!!!大坂城で公開になることがあったら、新幹線で見に行きたいと思いました。

豊臣期大坂城図屏風の原本がないのは、しかたないです。原本はオーストリアのお城の日本の間に各扇バラバラに切り離されて壁面を飾っています。これを再び屏風の形で複製したものが展示されていたのですから、ある意味非常にレアな状況。八曲一隻に描かれた大坂城。すばらしい。


他に気に入ったのが小松姫所用の笛作りの懐剣、女性らしい持ち物なのに笛に仕込み刀とかかっこいいじゃないですか。城主が留守の城を守った小松姫らしい持ち物でありました。

全体的に書状が多めでしたが、真田家にまつわる展示品の数々を見られて幸せな時間でいありました。

 

ついでですが、石田三成のよくみるあの肖像画、あれをみると「武将と言えば三成〜♪」って音楽が頭の中で鳴るようになってしまったので滋賀県は罪深いです。

 

行けたら後期も行きたいのですが、行けるかな……

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