金雲のすき間

合戦図屏風より愛を込めて

『合戦図 もののふたちの勇姿を描く』へ行ってきました

f:id:ujikintoki_byoubu:20190812222833j:plain

夏真っ盛りの名古屋・徳川美術館で開催中の『夏季特別展 合戦図 もののふたちの勇姿を描く』を見るために、新幹線で遠征してきました。

タイトルからもわかるように、中世合戦図絵巻から戦国合戦図までの絵巻・屏風の展示であります。

 

私が見に行ったA期間の戦国合戦図屏風の展示は

関ヶ原合戦図屏風 八曲一双(大阪歴史博物館)右隻

・賤ヶ岳合戦図屏風 六曲一双(岐阜市歴史博物館)

・長篠長久手合戦図屏風 六曲一双(徳川美術館

関ヶ原合戦図屏風 二曲二双(徳川美術館)うち一双

関ヶ原合戦図屏風 六曲一隻(岐阜市歴史博物館)

大坂冬の陣図屏風 模本 六曲一双(東京国立博物館

 

そしてお目当の

大坂冬の陣図屏風 デジタル想定復元 六曲一双」

f:id:ujikintoki_byoubu:20190812222639j:plain

大阪冬の陣図屏風 デジタル想定復元 1

 東京国立博物館所蔵の大坂冬の陣図屏風は、元になった屏風(祖本)を模写し新たな冬の陣図屏風を作成途中の下絵であると言われています。

トーハクの大坂冬の陣図屏風は、淡色だけ彩色され色のない部分に関しては色指定の指示が書き込まれていたり、本来六曲である屏風の構造でありながら五曲分にしか絵柄がなく両サイドの空白にはその他の図案に関する指示の付箋が貼られています。作成時代は江戸時代にも関わらず豊臣方の活躍が中心となっている構図など、謎が多く残されています。

その模本を本来あるべき姿にデジタル復元してみようというプロジェクトが実行され、今回徳川美術館での公開となりました。

凸版印刷、「大坂冬の陣図屛風」を色鮮やかに復元 https://www.toppan.co.jp/news/2019/06/newsrelease190620_2.html

 

冬の陣といえば真田丸ですが、その部分を比較してみましょう。

 

f:id:ujikintoki_byoubu:20190813112555j:plain

f:id:ujikintoki_byoubu:20190813112617j:plain

悠久の時を経て再現される豪華絢爛な合戦図屏風。

ロマンですね。

『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』を読みました

f:id:ujikintoki_byoubu:20180523160731j:plain

歴史上で起こった様々な出来事を直接見た人はすでに亡く。後世に語り継がれるのは勝者の歴史であることはわりと容易に想像がつきます。

残された書状からいかに実際に起こったことに近づくか、それが歴史を紐解く研究者のお仕事でもあり、楽しみでもあるわけです。

現代を生きる私たちでさえ、例えばTwitterの140字のツイートであっても読み手によって捉え方が異なることが発生することもあります。それが誤解を産んで大炎上などということも日常茶飯事だったりするわけです。となれば、400年以上大昔の要件だけ書かれた書状からどこまで現実にたどり着けるのか、大変難しいことだと十分理解できます。それをさらに難しくしているのが、後日書き記された軍記物などのいわゆる『読み物』。付け加えられる様々なエピソードで『読み物』は現実よりドラマチックに展開されリアリティをますことになります。その『読み物』をより解りやすく視覚的に表現され残されたものが『合戦図屏風』です。屏風一枚の中に『読み物』の中から印象深いエピソードを並べ屏風はより迫力のあるものとなっていきます。

最近は歴史上の書状の解読が進み、過去私たちが信じていた歴史上のエピソードが「実は違う」というニュースを目にすることも多くなってきました。それを知ってがっかりするのか、そうだったのか!と感心するのか、それは受け取り手次第と思います。

過去伝えられてきたことが「間違った事実」であると落胆し、頭の中の情報を上書きする必要はないと思っています。“諸説あります”必ず注意書きのように付け加えられる言葉です。諸説あるうちの一つの説であることは間違いないことです。それイコール絶対的な事実というわけでもありません。でも知識欲に忠実であればあるほど「この書状はこう読める」「書かれていることはこの時代以降に付け加えられたと考えられる」という解読にワクワクするのも間違いありません。現代を生きる私たちの誰も関ヶ原合戦を見たことはないのです。残された様々な史料から推測するしかないのなら、どの説がより真実に近いのか。読み比べて楽しんだ者勝ちと思うことしきりです。

関ヶ原合戦図屏風はかなりの数が残されていますが、そのほとんどが江戸時代後期の幕末に『関ヶ原軍記大成』という軍記物をベースに描かれています。百聞は一見にしかずと言われるように『屏風』という形で残されているとそれが真実のように錯覚しがちですが、さてさて実際はどうなのでしょう。ただ一双、合戦直後に描かれた大阪城天守閣所蔵の関ヶ原合戦図屏風には関ヶ原での合戦ど真ん中の描写がありません。その部分の屏風が欠損しているのか、初めからなかったのか、それを知るのも過去の史料に頼るしかないわけです。

っていうようなことを考えながら読み進めると、なるほどと思うことも多くありました。

帯にありますように

石田三成は西軍の首謀者ではなかった

・家康は関ヶ原で指揮をとっていなかった

小早川秀秋は急に寝返ったわけではなかった

・“決戦”の前日に西軍は降参していた

最近は白峰説など、私たちが慣れ親しんだ『関ヶ原』のイメージがガラッと変わってきていますが、その“諸説”を柔軟に受け取ることができれば教科書にない日本史をもっともっと楽しめるだろうと思います。

歴史はカビの生えた過去のものではなくこれからもどんどん解明の進んでいく生きた学問なのではないでしょうか。

戦国史、楽しいですね!

映画『関ヶ原』を観てきました

平日の午前、水曜日のレディースデイということで、題材的におそらく空いているだろうと思って出かけてみたのですが、意外に席は埋まっていました。

司馬遼太郎さんの『関ヶ原』はかなり以前に読んでますので、内容は十分承知。3時間弱の上映時間に上中下3巻に渡る長編に描かれた各武将の内面までスポットが当たるとも思えず、どうまとめられているのか、どのエピソードがチョイスされているのか、気になるところも多くありましたが、映画館の大スクリーンに映し出される合戦のスペクタクルこれが一番の見所。

f:id:ujikintoki_byoubu:20170907205258j:plain

関ヶ原に至る家康と三成の葛藤は短時間にまとめるには濃すぎる内容。端折られるというよりは後半の合戦へ向けて急ぎ足に役者が早口に捲し立てた印象。画面がおっさんばっかりになるのをなんとかしようとしていたのか、原作オリジナルの初芽さんがやたら出てくるのですがそれほど役に立っていなかったのでは? それに繋がる三成が合戦後生き延びようとした理由が……うーん……そんなことでいいのだろうか。

小早川秀秋の寝返りに関して、史実も諸説ありドラマや書籍ごとにいろいろと解釈違いがあるものですから今回はどんな金吾が来るのかとその辺も楽しみにしていたのですが、巻き込まれ型でした。その扱いは原作にもなかったのですが金吾君よい人でしたね。

主役三成は正義感溢れる義を大切にする優等生で人望がないという感じではなかった。家康は天下を狙う老獪で脂ぎったおっさんという描かれ方で、さすが役所広司はいい演技でした。この家康で大坂の陣も観たいなとちょっと思いました。

石田三成は江戸時代に作られた奸臣のイメージから近年見直しが進み、この司馬遼の関ヶ原で義の人として定着したのではないでしょうか。

なにはともあれ合戦図屏風好きとして、合戦前夜に東軍赤坂・西軍大垣城に張られた陣の様子が映し出された時に「おおおおお!これは関ヶ原合戦図屏風:津軽本そのもの!!!」と感動したことだけは伝えたいです。

合戦はまさに動く合戦図屏風!

たぶん、着目点が他の人と違います。

 

 

『戦国!井伊直虎から直政へ』展へ行ってきました

毎日暑い日が続いていますが、涼しくなったら出かけようなどと思っているとあっという間に開期が終わってしまうので万障繰り合わせて慌てて江戸東京博物館まで行ってきました。

f:id:ujikintoki_byoubu:20170716153252j:plain

ポスターの長久手合戦図屏風がいい味を出してますね。

丸ロスと戦いながら年頭より大河『おんな城主 直虎』見始めましたが、比較しちゃいけない。『直虎』には『直虎』の面白さがあります。

それはさておき、今回の目的は『長久手合戦図屏風』『関ヶ原合戦図屏風』『聚楽第行幸図屏風』でありました。
どこへ行ってもまずは屏風なわけですが、大河関係の展示も楽しいですな。

音声ガイドは南渓和尚小林薫さん。ちなみに本体のにゃん渓和尚(猫)は登場しませんでした。

実は男だったのではないかとも言われている直虎ですが、「直虎」の名と花押のある唯一の書状や「次郎法師」と書かれた黒印状などを見ると男女どちらだか定かではないけれど確かに存在した人なのだなと実感出来ます。

一部、撮影可の展示品もありました。

f:id:ujikintoki_byoubu:20170716161159j:plain

直盛さん、直虎の父上ですな。

 

f:id:ujikintoki_byoubu:20170716161243j:plain

大河で大暴落した亀之丞さんこと井伊直親

 

f:id:ujikintoki_byoubu:20170716161601j:plain

その亀之丞さんが神社に奉納した、青葉の横笛。

 

f:id:ujikintoki_byoubu:20170716161729j:plain

にゃん渓、もとい南渓和尚

 

f:id:ujikintoki_byoubu:20170716162607j:plain

傑山宗俊印可

昊天さんの軸もありました。大河でお馴染みの名前を見るとおお!っとなります。

 

他の展示品は撮影禁止です。

目的の『長久手合戦図屏風』は浦野家旧蔵とのこと。お初であります。
現存するほとんどの「長久手合戦図屏風」は同じ構図です。成瀬家本が祖本と言われていますが、その成瀬家本にももっと古い祖本があったのではないかという説もあります。合戦図屏風は先祖の活躍を伝えることを目的に描かれているので、祖本に先祖の勇姿を描き加えたり先祖を引き立たせる為に他の武将を消したり、自家に有利になるように改変し写本を作成しています。同じ構図ながらよくよく眺めると微妙な違いがあるのはそんな理由があるわけです。

今回の展示には行田市所蔵の『関ヶ原合戦図屏風』がありました。同上の理由で同じ構図の「関ヶ原合戦図屏風」にも同様の齟齬があります。一隻であったものに前日譚を描き足して一双となっているのが今回展示されている『関ヶ原合戦図屏風』の特徴です。

長久手合戦図屏風』も『関ヶ原合戦図屏風』も、今回展示されていた井伊の軍旗の下、赤備えの井伊直政率いる一軍が屏風の中で赤々と目立っています。

 

もう一つの目的が『聚楽第行幸図屏風』でありました。
後陽成天皇が秀吉の建てた聚楽第行幸する様子が金雲の中に描かれている豪華な一双です。秀吉に随行した家康の家臣の中で唯一直政が侍従に任官されたとのことですがさすがにどれが直政であるのか探すのは難しいです。

 

今回、井伊直孝の活躍を描いた『大坂夏の陣図(若江合戦図)』の展示がありましたが、彦根城博物館所蔵で『大坂夏の陣図屏風(若江合戦図)六曲一隻』と屏風の形になったものもあります。どちらも井伊隊の赤備えが目に鮮やかです。

 

戦国時代の展示は必ず合戦図屏風や風俗図屏風があるので、時代を直に眺めることが出来る唯一の機会となります。百聞は一見にしかず。当時を描いた屏風はとても楽しいです。

 

ぜひ

小田原城・石垣山一夜城の旅

時はGW、晴天の下、友と二人小田原へと出陣いたしました。

小田原城が平成の大改修によろリニューアルしたとのこと、展示品も含めここは是非是非拝観しておきたいとこだまに飛び乗り小田原へ。

小田原城小田原駅から徒歩10分、都内への通勤も可という好物件。総構えは二の丸までしか残っていませんが、立派なお堀に囲まれた改修済みの真っ白天守閣は青空に映えて見事でありました。

f:id:ujikintoki_byoubu:20170507144957j:plain

GWだけあって天守閣は入場制限もあり入口に大行列が出来ていました。展示品もなかなかよかったですが、観光の皆様の目的は天守からの小田原市街を一望する絶景。しかしそれも流れ作業のように立ち止まることを許されない混雑振りでなかなかに過酷。

本丸の門も再建されたもので古いものではありませんが、いくつかありました。


常磐木門』

f:id:ujikintoki_byoubu:20170507151611j:plain

本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく眷顧に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことがわかる。
 元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡り櫓から構成される枡形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。
 現在の常磐木門は、市制30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に再建したもので、門の傍らには往時からの松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常磐木門と名付けられたといわれている。(説明書きより)

 

『銅門(あかがねもん)』

f:id:ujikintoki_byoubu:20170507153213j:plain

 銅門は、櫓門・内仕切門・石垣・土塁からなる枡形形式の門です。この門は江戸時代初期の寛永10年(1632)ごろに稲葉氏によって最初に造られたと考えられますが、その後震災などを受け、何度か建替・修復されてきました。宝永2年(1705)ごろに造られた銅門は明治維新の廃城により解体されましたが、絵図面や古写真、発掘調査などの資料を基に、文化庁の指導を得て平成9年(1997)に復原されました。
 この門は、大手門から住吉橋を渡り二の丸御屋形(御殿)や本丸へと通じる、大手筋に設けられ、小田原城の中でも最も重要な門の一つでした。扉の飾り金具に銅が用いられていたことからこの名の由来があると考えられます。(説明書きより)

銅門は内部を公開中で、石落としなどを見学できました。

f:id:ujikintoki_byoubu:20170507160056j:plain
檜の匂いが爽やかな内部。

『馬出門』

f:id:ujikintoki_byoubu:20170507154619j:plain

馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文12年(1672)に枡形形式に改修され、江戸時代末期まで存続しました。
 石垣と土塀で四角く囲んだ枡形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木門から成ります。(説明書きより)

 小田原城は復原された建造物が多く綺麗に整備されていましたが、本丸裏側辺りにある発掘調査中の『御用米曲輪』(江戸時代に幕府の米蔵があった場所)は、戦国時代の建物や池・庭園などの跡等がみつかりまだまだこれから発見されるものも多くありそうです。

 

巨大な総構えの小田原城は街中あちらこちらに遺構が残っています。地図を片手に見て回るのも面白いかと思いますが、たとえば……

『幸田口門跡』
郵便局等の建物に囲まれた裏側に土塁が残っていたりします。

f:id:ujikintoki_byoubu:20170507162917j:plain

この土塁は、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。当時は、本丸・二の丸を包むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸としていました。この土塁は、三の丸の土塁が残されている数少ない場所の一つです。
 この場所の西側に幸田門という三の丸の入口がありました。その跡の一部が発掘調査で見つかっています。
 戦国時代に上杉謙信武田信玄小田原城を攻めた時にはこの幸田門から小田原城を攻めたと考えられています。北条氏康・氏政父子は籠城策を用いてこれを退け、小田原を守り抜きました。(説明書きより)

 

 三の丸がところどころに遺構を残す程度の存在となってしまっているので、大手門は地名に名を残すのみとなっているようですが一つだけ史跡がありました。

『大手門跡』

f:id:ujikintoki_byoubu:20170509205038j:plain

 この場所は、江戸時代の小田原城の大手門があったところです。
 この門を入ると西側一帯は三の丸となり、道の両側に小田原半の家老級の屋敷が並んでおりました。
 それまで箱根口付近にあった大手門を、稲葉氏が城主であった寛永十年(1633)に、三代将軍徳川家光が京に上るのに備えて、江戸に向く現在地に移し、大手門前までの道は将軍家が小田原城に入るための、御成道として整備され、東の入口であった江戸口見附も、国道一号沿いの現在の位置に移されました。
 大手門の造りを元禄時代ごろの絵図で見ると、三の丸の堀に架かる土橋を渡ると、外からの攻撃や敵の侵入を防ぐための、馬出と呼ばれる空間があり、さらに冠木門と呼ばれる門から、枡形と呼ばれる四角い空間に入ります。この枡形は、櫓門や石垣、堀で囲われており、厳重で立派な門であったことがわかります。(説明書きより)

 

駅近くの飲み屋街の片隅に、北条氏政・氏照の墓所がありました。 

f:id:ujikintoki_byoubu:20170507164742j:plain

鈴がたくさん下がっていて、鈴をたくさん掛ければ供養になると書かれているのですが、なぜ鈴なのかが今一つわからない……

f:id:ujikintoki_byoubu:20170508203341j:plain

 

 北条氏政は、北条氏四代の領主。氏照は、氏政の弟で、八王子城など五つの支城の城主でした。
 天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、五代領主氏直は高野山に追放され、父氏政とその弟氏照は城下の田村安斎邸(現南町)で自刃しました。
 両人の遺体は、当時この地にあった北条氏の氏寺、伝心庵に埋葬されました。(現在、永久寺所有)
 その後、放置されていた墓所は、稲葉氏が城主の時(1633〜1685)北条氏追福のため整備されました。大正十二年(1923)の関東大震災では墓所が埋没する被害をうけましたが、翌年地元の有志により復元されました。  小田原市教育委員会

(説明書きより)

 説明書きを読んでも鈴の謂われが不明であります。

 

さて、もう一つの目的であります『石垣山一夜城』ここへは通常公共交通機関がないとのことでしたが、行楽シーズン限定の「小田原宿観光回遊バス」を利用すると小田原駅前から20分で行くことが出来ます。
ということで到着しました。

『一夜城歴史公園』

f:id:ujikintoki_byoubu:20170507171519j:plain

 

豊臣秀吉が築城に当たり、山頂の林の中に堀や櫓の骨組みを造り、白紙を貼って白壁のように見せかけ、完成すると周囲の樹木を伐採し、それをみた小田原城将兵が一夜のうちに城が素津現下と思ったという伝承から石垣山一夜城と呼ばれています。
 秀吉はこの城に淀殿や側近や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。
 この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、野面積といい、長期戦に備えた本格的な城造りであったと言えます。(パンフレットより)

 豊臣秀吉は後世にも名の残るたくさんの武将により小田原城を包囲しました。その際に小田原全体を見下ろせる笠懸山の山頂に城を築き、そこを本陣としました。
北条氏の兵力5万4千に対し、豊臣勢はそれを遙かに上回る22万。
小田原城包囲は天正十八年(1560)4月3日から始まり、およそ三ヶ月後7月に氏直は開城降伏し、北条氏は滅亡しました。

f:id:ujikintoki_byoubu:20170508165817j:plain

 

f:id:ujikintoki_byoubu:20170508204913j:plain

 

小田原が眼下に一望出来る絶好のポジション。ここに秀吉は本陣を置いたいうことを実感出来る眺めであります。

f:id:ujikintoki_byoubu:20170508165911j:plain

f:id:ujikintoki_byoubu:20170508204313j:plain

 整備された芝生の公園を囲むのは崩れた石垣という、兵どもが夢の跡。

f:id:ujikintoki_byoubu:20170508204441j:plain 道標の上にあるのが瓢簞で、とても太閤殿下。

 

途中、一夜城のオススメはここだよ、と地元の方に教えていただいたのが『井戸曲輪(淀殿の化粧井戸』

f:id:ujikintoki_byoubu:20170508204904j:plain

f:id:ujikintoki_byoubu:20170508205003j:plain

淀殿も使ったと言われる化粧井戸。写真ではわかりにくいのですが、かなり深い。

 井戸曲輪は、石垣山一夜城二の丸(厩曲輪)北東側にあり、もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られている場所です。井戸は二の丸から215mも下がったところにあり、今でも湧き出る水を見ることができます。この井戸は「淀君化粧井戸」または「さざゑの井戸」とも呼ばれています。
 石垣山一夜城は、高い石垣で築かれた東国で最初の近世城郭です。石垣は、あまり加工されていない石を用いた野面積みで、築城に際して西国から穴太衆と呼ばれる石工集団が派遣されたことが文書に記されています。
 井戸曲輪の石垣は、石垣山一夜城の中でも特に当時の姿をよく留めている部分で、その石垣の特徴を知る上で貴重な遺構といえましょう。(説明書きより)

f:id:ujikintoki_byoubu:20170508210042j:plain

f:id:ujikintoki_byoubu:20170509210013j:plain

古い石垣しか残っていない一夜城には小田原城とは違う良さがありました。

400年以上の時を経ても残るもの。

浪漫だと思います。

 

都内から新幹線で30分。

思いの外近い場所、小田原には浪漫がありました。

f:id:ujikintoki_byoubu:20170509210422j:plain

 

 

 

『戦国時代展』へ行ってきました

f:id:ujikintoki_byoubu:20161201162710j:plain

姉川合戦図屏風がお出迎えです。

『戦国時代展』は今回、東京会場・京都会場・米沢会場の3会場を巡回します。
会場ごとに展示品の入れ替えがありますし、同会場でも前期と後期で違う展示となりますので、いけるものなら全部行きたいですがそういうわけにもいかず……

さて東京会場の前期です。

目当ての屏風はまず『川中島合戦図屏風・米沢本』同じ構図の勝山城本は後期の展示となります。川中島合戦図屏風は、岩国本といわれるものが一番古く有名で、その次に発見されたのが紀州本。岩国本は武田軍側から軍記『甲陽軍鑑』を元に描かれており、一方紀州本は上杉軍側から軍記『北越軍記』を元に制作されていると言われています。今回展示されていた、米沢本はその両方の屏風を折衷したような構図で江戸時代後期に制作されたものです。岩国本と紀州本はどの会場で拝見出来るのでしょうか、東京会場での展示がないのが残念です。
今回の川中島合戦図屏風は右隻左隻並んだ状態で展示されていました。ありがたいです。長期の展示による傷みを防ぐ為、前後期で右隻左隻泣き別れが多いのですが、一双の屏風は並べて眺めると迫力が違います。合戦のダイナミックな構図を堪能するにはやはり左隻右隻同時の展示が一番だと思います。

今回は『姉川合戦図屏風』の展示もありました。現存する姉川合戦の屏風はこれ一隻だけです。大変貴重なものであります。また昨今流行りの刀剣好きな方にはお馴染みの太郎太刀を掲げる真柄直隆が屏風の中央付近に見られます。太刀の長さを実感出来る絵柄ではないでしょうか。

 

『戦国時代展』は、上杉・武田から織田信長時代までを中心とした展示品が並んでいました。特に上杉関係の書状が多く、また毛利・尼子関係や大内氏関係の展示も充実、昨年の大関ヶ原展以前の戦国時代を中心とした特別展という捉え方でしょう。

上杉博物館所蔵の国宝・洛中洛外図屏風は残念ながら東京会場では展示がありませんが、京都会場で是非見ていただきたい屏風です。私は米沢で舐めるように眺めてきましたが、織田信長から上杉謙信に贈られたという当時の権威の象徴のような金ぴかの屏風は圧巻です。

他に印象に残ったのが『芸州厳島御一戦之図』厳島合戦の動きが手に取るようにわかる絵画図でした。
また、毛利元就の三本の矢の逸話の元になったといわれる長〜〜〜〜い書状。文書が長いと言われる毛利元就らしいお手紙でした。

図録は最近流行りの分厚いハードカバー。持ち帰り用に+270円で、五虎退柄の小さいバッグもありました。

f:id:ujikintoki_byoubu:20161201171535j:plain

後期や他の会場での展示品も全て掲載されていますので、今回見ることが出来なかったものも多く、また行かなくては!と思うものです。

 

日帰り大阪城! 〜櫓の内部公開見学他〜

10月の連休で大阪城へ出陣しました。

 

大阪歴史博物館

目的はこれ

f:id:ujikintoki_byoubu:20161021112300j:plain

東京会場は既に制覇済でしたが、大阪限定の展示も多くせっかくなので大阪城天守閣へも行きたい!!!とワクワク出かけていきました。

が!大阪会場でも『大坂夏の陣図屏風』の展示は複製でした……f:id:ujikintoki_byoubu:20161025111804j:plain

なぜこんなにピンボケなのだろうかと思いつつ真田丸展の源次郎さんにさよならしつつ、大阪城へと向かいます。

たまたまこの日は真田丸のイベントと重なっていましたので、おそらく通常よりも人出もあったのかと思われます。

 

大阪城

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025120421j:plain

 

 

 

 

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025112005j:plain

大阪城初めて行きましたが、噂に聞いた高い石垣(高虎さんすごい)。これはおいそれと登れない。現在の大阪城は豊臣の築いたものではなく徳川が「秀吉のより大きくて立派なのにしてね」と頑張ったものなのでその大きさ広さは類を見ないもの。

 

 

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025112451j:plain

何より諸大名がこぞって供出した石垣用の石の大きさがハンパないです。大きさ比較に誰かに手前に立ってもらえばよかったです。

大手口枡形の巨石

 枡形とは城の重要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の鍼灸を食い止める役目を果たした。築城技術の進歩にともなって強固な石造りのものがあらわれ、大阪城の大手口枡形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をくぐって正面に位置する大手見付石【おおてみつけいし】は、表面積が焼く29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、左の大手二番石【おおてにばんいし】は約23畳敷(37.90平方メートル)で第5位、右の大手三番石【おおてさんばんいし】約22畳敷(35.8平方メートル)で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島【しょうどしま】と推定されている。現存する大阪城の遺構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620)から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠広【かとうただひろ】が築き、のちに筑後久留米藩有馬豊氏【ありまとようじ】が改築した。

当日は櫓が一般公開されており、『多聞櫓』『千貫櫓』『焔硝蔵』の内部を見学することができました。
(立て看板より)

 

 この巨石の左手にあるのが『多門櫓』

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025114925j:plain

 重要文化財・多門櫓

 大手口枡形【ますがた】の石垣の上に建つ櫓で、大門【おおもん】の上をまたぐ渡櫓【わたりやぐら】と、その右側に直角に折れて接続する続櫓【つづきやぐら】によって構成される。徳川幕府による大坂城再築工事により寛永5年(1628)に創建されたが、天明3年(1783)の落雷によって全焼し、嘉永元年(1848)に再建された。土塀や石垣上に築かれた長屋状の建物を一般に多聞(多門)と呼ぶが、その名称は戦国時代の武将松永久秀【まつながひさひで】が大和国(今の奈良県)の多聞城でこうした形式の櫓を初めて築いたことに由来するといわれる。現存する多聞櫓の中でもこの多聞櫓は最大規模で、高さは約14.7メートル、建築総面積は約710.25平方メートルある。渡櫓内部には70畳敷を最大とする部屋が4室、続櫓内部には廊下の他に9畳・12畳・15畳の部屋が計6室あって多数の兵や武器をたくわえることができ、枡形の内側に多くの窓があり、また大門をくぐる敵を真上から攻撃する「槍落とし」の装置が設けられるなど、高い防御能力を備えている。大阪城の二の丸には京橋口・玉造口にも多聞櫓があったが、現存するのはここだけである。

(立て看板より)

 

 

ということで多聞櫓内部の見学へと進みました。

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025120641j:plain

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025120705j:plain

先ほどの門のちょうど真上あたり。ここを通行しようとする敵に槍を落としたという『槍落とし』です。

 

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025130441j:plain

重要文化財・千貫櫓 

 西の丸庭園の西南隅に建つ二層の隅櫓で、大坂城の正門・大手門を側面から防御する重要な位置を占める。多聞櫓とは土塀で連結している。
 千貫の名称は、その昔この地にあった石山本願寺織田信長が攻めたとき、この付近にあった櫓が難攻不落で「あの櫓を落とした者には千貫文与えても惜しくはない」と離していたことからその櫓を千貫櫓と呼ぶようになり、その後も大手の守りのかなめとなる重要なこの付近の櫓にその名が引き継がれたとされている。
 徳川幕府大阪城再築初期の元和6年(1620)に桂離宮などの設計で知られる小堀遠州によって創建された。昭和36年の解体修理のときに「元和六年九月十三日御柱立つ」の黒書の板が土台から発見され、創建年月日が明確になった。城内では乾櫓とともに最も古い物である。
 内部は一、二階とも武者走りと呼ばれる回廊がとりまき、その内側に4室ずつ天井板張部屋がある。一階の面積は約199平方メートル、二階は約143.32平方メートル。
 一階、二階とも武者走りには大手門と外堀対岸に向かって隠し銃眼が、また一階には石垣をよじ登ってくる敵に対する石落としの装置が見られる。
 なお、二階武者走りに格子ぶたの荷揚げ装置がみられるが、創建時から設置されたものか明治以降、軍部によって付けられたものか定かではない。
(内部説明板)

 

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025130427j:plain

千貫櫓は出口付近のこのレリーフが印象的でしたが、これはいったいなになのか? 

 

二の丸公園で真田丸イベントの準備を眺めつつ、六文銭たこ焼きをいただきました。

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025131600j:plain

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025131408j:plain

 

内部見学三つ目。

重要文化財・焔硝蔵

 徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685)に建造されたもの。焔硝蔵はそれ以前にも城内数カ所にあったが、青屋口にあった土蔵造りの焔硝蔵は万治3年(1660)に落雷を受けて大爆発を起こし、また別の場所にあった半地下式の焔硝蔵も部材の腐食による建て直しがたびたびされるなど、幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していた。そうした課題を克服すべく、この焔硝蔵では耐火・耐久・防水に特に工夫がこらされ、床・壁・天井・梁【はり】をすべて花崗岩【かこうがん】とし、石壁の厚さは約2.4メートル、屋根の下は土で固められている。面積は約171.9平方メートル、高さは約5.4メートルで、こうした石造りの火薬庫はわが国では他に例がない。徳川時代大坂城には、西日本における幕府の軍事拠点として、焔硝の他にも大量の兵糧や武器武具が備蓄されていた。
(立て看板より)

 

 内部がなかなかにお洒落でした。

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025132746j:plain

外側

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025132933j:plain

かなり頑丈そうな火薬庫であります。

墨絵ライブを横目にみつつ、天守閣へと向かいます。

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025133522j:plain

あと鷹匠さんがいらっしゃいました!

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025133639j:plain

天守閣の下あたりにあった残念石。

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025133815j:plain

城内、城下、いろいろなところに石垣に使ってもらえなかった残念な石が放置されているらしくそれを探して歩くのもまた楽しそうであります。

 

さて、大阪城天守閣ではこの展示。
『特別展 真田幸村の生涯を彩った人たち』これがなかなかに充実した展示でした。

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025134114j:plain

なにより、どこへ行っても「複製」だった『大坂夏の陣図屏風』の原本がここに展示されていたのです。所蔵されている場所での展示、当然と言えば当然。そしてここには、その大坂夏の陣図屏風右隻の中央に描かれている真田隊と松平隊の激戦がミニチュアで立体的に再現されています。写真を撮ってもよかったと後で知ったので惜しいかなそのミニチュアの写真がありませんが、大阪城天守閣へ行くことがありましたら是非ご覧いただきたいです。大坂夏の陣図屏風の驚きの再現率!

さて、せっかく偶然ながらも真田丸イベントにかち合いましたので、真田昌幸こと草刈りさんのトークを見てから帰りましょうかと二の丸よりはちょっと遠い天守閣近くから見学させていただきました。

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025135010j:plain

スマホではこれが限界。でもお声はしっかり聞こえました。
では、おのおの抜かりなく」

さて、日も暮れて帰路につこうと桜門を出るとあるのが豊国神社。

f:id:ujikintoki_byoubu:20161025135544j:plain

月下に佇む秀吉様のその陣羽織は、まさしく大河で見たアレですね!

 

ということで、大阪でもまた屏風を追いかけて充実した一日となりました。
合戦図屏風はいいぞ!